響きと結び 遠藤征四郎

「仏道をならふというは、自己をならふ也。
  自己をならふといふは、自己をわするるなり。
  自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
  万法に証せらるるといふは、自己の心身および他己
  の心身をして脱落せしむるなり」
  (道元禅師「正法眼蔵」現成公案の一節より)
 ”To learn the path of Buddha is to learn oneself.
  To learn oneself is to forget oneself.
  To forget oneself is to be enlightened by a multitude of ways.
  To be enlightened by a multitude of ways is to become
  free mentally and physically with respect to both oneself and others.”

形と基本

 私たちは、合気道の稽古を形の模倣で始める。教えられる形の数は多く、これらを基本と位置づけ、「基本が大切だ」という言葉に忠実に、何年も飽くことなく続けている。
 私も基本が大切であることは十分承知しているが、「基本を大切に」と意識して稽古をしているらいしい人々の動きを見ると、基本がなぜ大切なのか、どのように稽古をしたらよいのか判っていないように思えることがある。私の観るところ、稽古の仕方が間違っているのではないかと、そう長らく感じてきた。それは、稽古をすればするほど硬さが見え、動きが形骸化しているからだ。形稽古は、本来、合気道を知るための手段であって、稽古をすればするほど柔軟で、自由で、創造的な動きができるようになっていかねばならないはずだ。
 稽古をすればするほど硬く、見苦しくなっている人々の稽古は、受け・取り・が決まっていて、攻防の形も決まっているのに、すでに形を覚える段階で強く投げることや、「効かすためには」などと指導されている。稽古は、繰り返すことによって正しいことを習慣づけ、体に染み込ませていかなければいけないのに、倒すことばかり夢中になっているから、力む習慣や悪い癖が体に染み込んでしまう。

稽古について

 天地の呼吸に合し、声と心と拍子が一致して言霊となり、一つの技となって飛び出すことが肝要で、これをさらに肉体と統一する。声と肉体と心の統一が出来手はじめて技が成り立つのである。霊体の統一ができて偉大な力を、なおさらに練り固め磨きあげていくことが合気の稽古である。(中略)
 この人間にあたえられたところの、言葉の魂を肉身と一つにして日々稽古して、天地の呼吸と合致せねばならぬ。ある時には「エィ」と切り、「ヤー」と受け、「トー」と離れる。これは同じ者(同水準)同士に隙がない時には「トー」と離れることができるが、一方に隙があれば「エィ」「ヤッ」と切られてしまう。古くはかく「エィ」「ヤッ」と合し、「トー」と離れ、また「エィ、ヤッ」と結ぶ。そこにお互いの隙がないよう錬磨を重ねていったのである。
 かくのごとく熱心に稽古の度を重ねるに至らば、相手と相対した時にいまだ手をださねうちに、すでに相手の倒れた姿が見える。そこでその方向に技をかけると、面白く投げられる。
 技は熱心になれば、かくなるものと信じて錬磨すべし。

 

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