地域別の日本史

地域別の日本史 菅野祐孝

 東北の歴史

*飢餓と惨状
 享保・天明・天保の三つが江戸時代の三大飢饉として知られていますが、そのなかでもとくに天明の大飢饉(1782~87)のときは凄絶で、仙台藩だけでも30万人余りの餓死者が出ました。
 冷害・水害・浅間山の噴火などを背景としたこの飢饉の惨状について、杉田玄白は「後見草」のなかで次のように記しています。

 「出羽、陸奥の両国は常は豊穣の国なりしが、此年はそれに引きかへて取わけの不熟にて、南部、津軽に至りては、余所よりは甚しく・・父子兄弟を見棄て我一にと他領に出さまよひ、なげき食を乞ふ。されど行く先々も同じ飢饉の折からなれば、・・日々に千人二千人流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなはずして残り留る者共は、食ふべきものの限りは食ひたれど、後に尽果て、先に死にたる屍を切取ては食ひし由、或は小児の首を切、頭面の皮を剥去りて、焼火の中にて焙り焼、頭蓋のわれめに篦をさし入、脳味噌を引出し、草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有しと也。・・・又或人の語りしは、其ころ陸奥にて何がしとかいへる橋打通り侍りしに、其下に飢たる人の死骸あり、是を切割、股の肉、籃に盛行人有し故、何になすぞと問侍りしに、是を草木の葉に交て犬の肉と欺て商ふなりと答へし由、・・おそろしか年なりし。」
 此年というのは、1784年天明4年のことで全国的に凶作が続いていました。

*出稼ぎと集団就職
 中学校を卒業したてのまだ幼さが残る少年少女たち。齢十五で青森・秋田など本州北の地から集団就職で大都市東京を目指します。1954昭和29年4月5日、青森駅午後3時33分発の集団就職列車第一号八両編成が上野駅十八番ホームに滑り込んだのは翌日のことでした。以後、集団就職列車は年間76本運転され、一種の社会現象となりましたが、彼らは低賃金・長時間労働といった厳しい労働環境のなかに身を置くことになったのです。
 当時、彼ら若年労働者は「金の卵」と呼ばれてましたが、それはけっして彼ら自身を賞賛した呼称ではありません。1964昭和39年に労働者がそのように呼ばれはじめ、企業側も彼らをまさに「金を生み出す卵」として位置づけていたのです。
 彼らは、中小企業や自営業者のもとで住み込みで働きました。一日の平均労働時間は十時間、休みは月に二回、賃金は月給三千円から四千円といったところが相場で、その収入の中から郷里に仕送りをし、残りのお金で都会暮らしを続けていたのです。
 ところがその結果、農民に残されたのは年老いたじいちゃん、ばあちゃん、そして母ちゃんでした。男手がない期間は、彼らが農業を守っていかないといけません。これを「三ちゃん農業」といいます。
 1973昭和48年の第四次中東戦争をきっかけに、GNPが戦後はじめてマイナス成長を記録し、高度成長時代の幕が下りたのです。
 それにともない、集団就職列車も1975昭和50年を最後に姿を消しました。

 

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