刀と文化と日本人2

matumoto

こうして日本人は、引く事を大切に考え、迎え入れることを良いとしていくうえで
重要なのは、胸ではなく背中であると思い始めました。
着物は、いつの日か帯を後ろで結ぶようになり、身体の前面の装飾を嫌いました。
つまり意識は背中に集中するようになったわけです。
気配も背中で感じるわけです。そうしていく中で、背中の気配を守るため
筋肉で動くことが、この気配を感じるときの邪魔になると気づきました。

戦国の武将が盃を持って飲むときにやたらと肘を張って飲む様子があります。

sakeどうしてこうなるのか、やってみるとわかるのですが、
<なにか、多少重いもの携帯電話のような物を盃に見立てて持ってみる>

鉄アレイを持つように盃を口に運ぶと背中の気配がなくなります。
肘を張って筋肉をなるべく使わないようにすると背中の気配が守られるわけです。
こうして、コツを掴むわけです。このコツとは骨の事で、そもそもコツは
骨で動く所作のことを指しているわけです。
筋肉を使いますとどうしても意志が立ちます。すると気配が意志によって捏造されます。
ですから、意志を遠ざけるためにコツを使うわけです。

現代では背骨で動くといいますと、今風に解釈をして、ああ中心線ですね。
それだったら、アレキサンダーシステムがいいですよとか
筋肉を使わないのは、つまりはインナーマッスルを使えということですね。
という風に理解をしようとするのですが、実は決定的な違いがあります。
つまり、海外のシステムは中心線と言ってもそれは見える現実の世界を捉えますが、
日本の背中が捉えようとしている物は、目に見えない世界つまり幽玄なのです。

こうなってしまうと理解したくない人も多くでてきましが、日本文化ということを
力にしようとしたときに避けられない不思議の世界がそこにあるわけです。
眼に見えない物をありがたく思いまた、おそれおののくことの文化があります。

そうでなければ、神社は成り立ちませんし、鎮守の森も力を失います。

さて、この気配を守るために意志が乗りやすい筋肉の使用を避けたわけですが、
同じように避けていることがあります。

それは、相手の正面に入らないこと、視線を相手に向けないことですね。
勝負事たとえば、将棋とか囲碁は、正対します。
同じように剣道や柔道も正対しますが、
これらは競技のためにそうしているわけで
できることなら正面をきって対峙したくないのが日本文化です。

例えば、茶道では、主人と客が対峙することがありません。
それでも、所作を通じてお互いがわかり合えたわけです。
言葉のいらない世界なら、対峙しない方が良いわけです。

これは、みなさんがよく行きます。神社の造りにも活かされています。
中国は入り口から神殿まで一直線で結ばれて、シンメトリーに建物が配置されます。
日本で言えば平安神宮ですね。これは平安京を模して作られましたから、
日本的な配置というよりは中国風になっているわけです。
これに対して、日本的な神社は、鳥居から入って神殿までが
一直線で結ばれていることは、あまりありません。
身近なところでは、明治神宮ですね。正面から入って、一度左に曲がって
そのあとまた右に曲がって神殿にあたるわけです。伊勢神宮もそうですね。
出雲大社は、一見一直線にあるようですが、実は神様は横を向いて設置されています。

こういった文化もやはり、眼に見えないものを大切にするために考えられたものですね。

<背後から忍び寄る気配を、まっすぐに入ったときと斜めに入ったときで違いを感じてみる>

斜めから入る所作は、やはりいろいろなところで、残されています。
なにか一見まどろっこしいように感じる所作も、言葉や視覚を排した世界では大事なことなのです。

こんど神社に行かれるときは、そんなことも気にしてみたら楽しいと思います。

日本文化は引く動きを取り入れることで、何か眼に見えないものを迎え入れ
察する事によって、佳いという共通の感覚経験を共有しようとしていたと思われるわけです。

まとめ

今日やった事の復習的にまとめて、終わりにします。

以上だいたい90分から休憩をいれて120分を想定しています。
よろしくお願いいたします。

 

その1へもどる

 

プレゼン用資料

 


Copyright(c) 2013 伝ふプロジェクト All Rights Reserved.