刀と文化と日本人

kanesada

*日本の文化というのは、佳いという感覚の共有体験が、多くの人に受け継がて、形成されてきたのものだと思います。つまり、ある体験の中に文化の基礎があるわけで、それはすなわちある特定の動作(所作)の中にヒントが隠されてると思われます。所作はやがて型となり、型の中に思想が芽生えます。思想にまで高められた型は道となり、それが今日の茶道であり、華道や武道、神道などに成長したのだと思います。ですから、日本人の所作を知れば、日本の文化の根っこが理解できるわけです。今回は、そんな日本的な所作について、身近で簡単なことから、刀を通して話していきたいと思います。

 

*どうして刀で日本を語れるのか
nomdekatana刀は武器の一つですが、それ以上に象徴的存在でもあります。ですが武士は実際の所、総人口の一割ぐらいの人たちです、ですからそれで日本の文化を語るというのは、偏りすぎていませんか?という事を指摘される方もいらっしゃいますが、そもそも日本というのは、武士に限らず、全ての人が日本的所作をベースに文化を形成していたわけですから。畑仕事から武道、茶道、能に至るまでまったく実は同じ体捌きをしていたようなんです。つまり武士に特化して調べたとしても日本文化の基礎に変わりはないわけです。それに、身分が高いことから記録として文献が多く残されているので大変参考になるわけです。お百姓さんの鍬の使い方の伝書とかは残念ながら残っているのを聞かないわけです。しかし、武術に関しては、各流派である程度の文献が残されているわけです。ですから、考察するヒントがあるわけです。
そもそも刀というのは武器でもあり、道具でもあります。日本人は道具を現代のような意識で扱いません。道具をまるで生きているものとして扱います。なぜそうするのか、日本文化の面白いところでもあります。道具はたんに利用するものではなく、いろいろなことを自分に教えてくれる教材でもあるわけです。道具を正しく使うことが、人としての教育にもなっていたわけです。
今回は、この刀の事を中心に日本文化を探って行きたいと思います。

*刀の名称
刀とは片側の刃、つまりカタバがなまって刀となったようです。
西洋などの剣と違って、片側にしか刃が付いていないわけです。
日本人にとっては当たり前のように感じますが、両手で扱わないといけなかったりと、世界的に見ても結構珍しい武器になると思います。
鍔、束、鞘、目貫、目釘、切羽、鯉口など
今も残っている刀に関する言葉、
・切羽詰まる ・つばぜり合い ・目貫通り ・鞘当て ・束の間 ・反りが合わない
各言葉の簡単な説明をします。

*刀の差し方
刀の刃の向きが上にして持つ場合と下に向けて持つ場合あります。
鎧を付けた場合、帯が巻けませんので、紐で刀をくくります。
この場合刃は下を向きます。太刀と呼ばれたりします。
ふつう着物の帯に差している刀は刃を上に向けて、一般的に刀と呼んでいます。
刀をみてどちらかを判断する場合は、くり形があるほうが外に向きますので
それで判断できます。
・閂差し ・落とし差し

*刀の持ち方
刀の持ち方は、諸説ありまして、とても難しい問題です
そもそも、手の内といえば、刀をどう持つかということで、どこの武術でも奥伝になります。ですから、推測しか出来ないわけです。私たちが、一般的にテレビや剣道なので馴染みのあるのは、束の中で、右手と左手が離れて持ち、どちらかといえば、テコの原理で刀を動かす持ち方なわけです。それは科学的にも納得いく感じのする持ち方なので正しそうですが、実は疑問もあるわけです。
まず、新選組で有名な土方歳三さんは、和泉守兼定という刀を持っていました。毎年歳三命日に合わせて、土方歳三資料館で展示されていますが、実はこの刀の束の摩耗具合から、土方歳三さんは両手をくっつけて持っていたことが分ったのです。これは、室内での戦いに備えたからだという理由でまとめられていますが、僕はそんな適当な理由で手の内を変えるほど流儀は簡単なものではないと思っています。
つぎに葛飾北斎さんが残した漫画ですが、ここには武術の稽古をしている様子もあります。それが、これです。

b0287744_21453633しっかり手を合わせて持っているわけです。
僕は、この事が、日本文化が分かりづらくなってしまったポイントだと思います。
常識として科学的根拠に基づいた持ち方、明治以降
実用として身体の動きに基づいた持ち方、江戸以前
こう言った対比が、同じ文化の上で起きてしまったわけですね。
ですから、観光地に行って歴史的建造物などを見たときにですね。
今の常識のみでみるのではなく、昔の日本人がどう動いていたのかということを
考えながら見るのもとても楽しい試みだと思うのです。
そして、今回所作から考える文化としましては、ここからが本題になります。

<もし出来るなら、ここで刀(竹光)を実際に持ってもらって握りの違いを確認する>
刀は斬る物ですが、ナイフの様にしっかり握りしめません。どちらかといえば、お箸を持つように柔らかく道具を拘束するような持ち方はしないわけです。
手首は特に柔らかく持つことが大切になります。

*引く文化
持っていただければ分かると思いますが、刀は基本的には引いて斬ります。
ですから武器としてはとても不利な道具です。両手で持てば敵に届く距離が短くなりますし、さらにそこから引いて斬るわけですから、槍や薙刀さらに海外の武器にくらべてもかなり戦闘能力が劣るわけです。それでも、刀の評価は不思議なほど高いわけです。
ですから、それら不利な事以上に魅力のある武器であったのだと思います。
今、刀は引いて斬りますと言いましたが、この引くという行為は実は、日本独特の文化でもあります。包丁も引いて斬りますし、のこぎりも日本だけが引いて切るのです。引き戸もありますし、お釣りの計算では、圧倒的に引き算です。格闘技においてもボクシングのように相手を突き放すのではなく、柔道の様に相手を引き込んで戦うわけです。
こうしてみても、日本人は引くという動作が好きなことが分かります。
こういう点を捉えて、前に出ることが好きな欧米に比べて、どうしても自己主張が足りないとかいろいろと言われてしまうわけですが、どうして引くのかを理解しないで、闇雲に欧米人の様に突っ走ると後ろ盾である日本の文化の支えを失いますので、注意が必要なわけです。

また引くというのは、自分に引き寄せることでもあり、自分と一体化する事で、
相手を知ろうとしていたのかもしれません。

 弓道の達人阿波研造師範は暗闇で狙うことができない的の中心を一射目で見事に射抜いただけでなく、続く二射目の矢は的に刺さったままも一射目の矢軸を割くようにして的の中心に吸い込まれていたという。このとき阿波師範はヘリゲルに「「的を狙ってはいけない。心を深く凝らせば、的と自分が一体となる。自分自身を射なさい。」と諭した。

一刀流の秘伝の中には、一見不可思議極まりない表現が見られる。一般にはあたりまえすぎて馬鹿にしているのではないかとさ思えるようにしか映らないものだ。つまり、一刀流の極意は単に「太刀を振りかぶり、ただ振り下ろすだけ」とあるのだ。こんな極意などは今さら何の役にも立たないしとしかおもえなかった高弟が、ではいつ太刀を振り下ろせばよいのかと問うのに対し、師は
 「太刀を振りかぶり、相手の後ろ姿を捉えたときにそのまま振り下ろせば必ず相手を斬ることができる」
 と、まさに禅問答のような答えに終始するのみ。

*引く文化と着物

着物というのは、身近にあります日本文化ですね。
あまり身近でもなくなってきていますが、それでも着物から教わることは
まだまだいっぱいあるわけです。

着物を着たことがある人は分かると思いますが、普段違って、動きの制約を受けます。
例えば、大股で歩くことができませんし身体をひねることができません。
ですから、歩き方が現代と違って腰をひねって歩くことがありません。
なんば歩きというを聞いたことがあるかもしれませんが、まあそんな歩き方です。
能や狂言に至っては、すり足と言われる歩き方をします。
この場合歩きという言葉も使わずに、運びとかおくりといいます。
神主さんの歩き方もこんな感じですね。
武士の場合はもちろん、腰に刀を差していますから、当然腰をくねくねと
動かして歩くわけにはいきません。なんばに近い歩きになるわけです。

とここまでは、想像がつくことだと思いますが、実はもっと大事なことが隠されています。

<ここで、実際にちょっと歩いてみることができれば、実践してもらいます>

じつは、なんば歩きとは、下がるときにとても有効な歩き方になります。
日本の場合、正面を向いたまま後ろに下がることが儀礼の場では良くあります。
下がるまたは、引くということで、場面や気持ちを切り替えることもしていました。
引く動作をすることで、切り返すことが出来るわけです。
武士は刀を左に持ちますが、左利きの人でも左に差したようです。
これは、実は引く動作が容易になるからなのです。
まったく科学的な根拠が出せないのですが、なぜかそうなっています。
こういうことが、文化の力と言うのかもしれませんね。

<歩くスペースがあれば、刀を左に持った場合と右に持った場合で下がってみて比べてみる>

左に持てば、下がりやすいわけです。では、どうして武士は戦わないといけないのに引く事を最初から想定しているのでしょう?
それは、引けば、身体が安定するからです。
着物は背中の文化です。
ですから、腕時計や首飾りなどをしません。
それは背中に意識を持っていきたいからです。
背中に気配を感じますし、相手との接し方も背中まで受け入れる訳です。
日本の武道が、相手を向かい入れて足元に崩すのも背中を使うからなのかもしれません。

<下がると身体安定するということを実際に歩いて確かめてみる>

引くという行為が必ずしも、逃げている訳ではないことが分かると思います。
どうして、こういうことが起きるのかといいますと、前に進む場合
私たちはよく日常で行われているなれた行為ですので意志が介入します。
しかし、下がる行為は後ろが見えませんし、意志が働きづらいわけです。
ですから、結果として身体に動きを任せているわけで意志が休んでいるわけです。
こうしたちょっとした所作のヒントの先にあるのが、意志を休ませること
つまり無になることによって意志の介在をさけることが良いとされたのかもしれません。

 

その2

プレゼン資料

 


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