話すこと聞くこと その2
私たちは、冷静に自分を分析してみると分かるのですが
みんなで話をしていて、誰かがしゃべっているとき
その話を聞いていないで、自分もいっしょにしゃべっている。
または、次に自分が話すタイミングを図ったり、内容を考えたり
人の話は聞いているようで実のところあまり聞いていなかったりする。
つまり会話とは、お互いに話している状態になるわけです。
聞くという行為をしっかり意識していかないと
話すことの付属品のような存在になってしまうわけです。
普段の会話なら、お互い言いたいことを言って終わってもよいのですが、
舞台となると、そうもいきません。
演者は、お客さんに対して、一方的に語りかけているわけですし、
お客様は、一方的に聞いているわけです。
そして、どちらかと言えば難しい、聞く側にお客さんがいるという
困難な構図が浮かび上がってくるわけです。
このことを解消する方法は、ひょっとしたら視線と同じように
あるベクトル(聴線)を消せばよいのかもしれないのです。
そこで、思い出されるのが能舞台の下に埋められた瓶の存在です。
舞台の下には瓶が埋めてあったりします。
多分、音響をよくするためだろうと科学的には言われています。
通常、舞台からお客様に話すと、明確なベクトルが出来ます
これを瓶を使ってみますと、演者はこの瓶に話しかけます
お客様は、この瓶に音を聞きに行くわけです。
このように音声の伝達にある空間を使うと、ベクトルは消えお客様は
自然と音を楽しむことが出来、ストーリーもわかりやすくなるわけです。
演じている演者と、演者の話す言葉を分離させ、別々に独立して味わうわけです。
この方式、考えてみれば、もっと良いことが発見できます、
上の図では、演者と観客は同等に描かれていますが、
もし、これが、お客様が将軍様だったとしたら、、
直接見ることも、語ることも実はとても畏れ多いことです。
このことを避けるためにも瓶を利用することは、便宜上とても有効だと思われます。
聞くという行為を純粋化するために、その言葉の発生地点を
特定しないこと、そして空間、つまり間を利用すると言うこと
日本画の何も描かれていない間と同じように
物の本質を浮かび上がらせるための必要な間として、生きてくるのだと思います。