精神論からの脱却

2017-01-28

suisen

刀を使った所作と言いますとどうしても武士道を連想して、
行き着くところ精神論というイメージが強くあると思います。
武道とは精神修養の場であるというわけです。
それはそれで間違いでは無いと思いますが、
実は日本文化とは本当のところそれらとは真逆にあると思われます。
日本文化は精神性を排除するところから始まります。
自分の行う行動と自分の心や感情や意志とをいかに連動させないかを追求し、
その結果に生まれたのが型という文化だと思われます。
現代では、まず気持ちが大切ですと色々な場面で、当たり前の様に言われていますが、
これらの気持ちを全て封印して動くことが所作といわれる日本の集中世界なのです。
普段使っている精神を封印するという意味では精神修養になるというわけです。
では、いったい何をするのか?
と言いますと、感覚を使って身体を動かすわけです。
この感覚は、普段私たちが使う五感に代表されるような刺激に対する識別感覚ではなく、
なにかと共に動く様な同調感覚を使います。
この同調感覚に身体を任せて動かすことによって、
次第にある感性を引き出すことができるようになります。
そしてこの時生まれる感性は、自我とは違う、
ある種の普遍性であったり、多様性であったり、
共有性を持ち合わせていたりするわけです。
こうした一連の行為を古来日本では、佳しとして文化にまで、してきたわけです。
強い意志や行動は、今ここにあるもので、しかも見える存在です。
しかし、感性というものは、ここに存在せず、見えない物です。
こうした、みえなものを大切に考え、なんとかして、扱おうとする試みが、
日本の文化の源流に流れている事だと思います。
問題は、産業革命以降、科学というものが台頭し、
あらゆるものを可視化することが、正義となりました、
啓蒙的であり、唯物的であり、実在的であることが、主流となっています。
さらに現代では、精神が、身体よりも優位にたち、
脳科学まで、出現するに至り、身体は健康でさえあれば、
あとは精神活動だけで、人生が上手くいき、
幸せになれると、信じられるようになりました。
(もちろん、ランニングはするし、スポーツもして、身体の事も考えて鍛えています。
と言う人もたくさんいると思いますが、もし、それらの活動が、
健康のためであったり、ダイエットのためであったり、自分のためであるならば、
それらは、精神活動の域を外れていない、ということも注意しないといけません。)
こうした流れの中では、見えない物を大切にする日本文化は、
どうしても懐古的であり、実用的ではないと、切り捨てられてしまうわけです。
では、はたして本当に日本文化は、もう実用価値が無くなったのでしょうか?
僕は、違うと思います。
今だからこそ、早急に日本人はもう一度日本文化に気づくべき時に、
来ているように思われます。
みなさんは、仕事でも、私生活でも、ストレスをため、
世界一、精神病院が多く存在する現状を、おかしいと思うべきだと思います。
私たちは、間違いなく、日本の文化圏の中で、生活し、活動しているわけですから、
生活を丸ごとすべて、西洋化することに、疑問を持つべき時期に来たと思うのです。
日本人は、その文化の中で、精神活動から自らの動きを切り離し、
そこで体現できる、共同性(言葉に頼らない意思伝達)や
普遍性(個を超えた雄大な感性)を有効に活用してきていたのです。
察する能力や、気配や、空気を読む力、個を超えた力強さ、
独創性や創造性、などなど、それらのすべてが、自分の身体の中から、
導き出すことが出来た。これらが日本の文化の力なのです。
侍が、まずしようとしていた稽古とは、それら文化の力を活用するために必要な、
精神活動を止める精神(つまり無になること、独りという集中観をつくること)。
そして感覚から感性を引き出すための身体をつくる(これを身体を練るという)
これらの活動が、武道の最初の取り組みであり、
それらは、精神論とは、全く別次元の稽古になることは、
容易に想像が付くことだと思います。
伝ふプロジェクトでは、こうした取り組みに賛同してもらえるよう活動しています

 

 

 


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