お稽古はじめるよ~ Vol 5

2016-01-15

suisen

日本的な表現のなかで代表的なものが
主語の喪失だと思います。
これは、いちいち主語を書くのが面倒だからとか、
主語は前後の関係でわかるからとか、そのような理由で
主語を省略したという話のことではありません。
最初から、主語がなかった表現のことです。
あまりにも有名な小説の書き出しもそうです。
国境のトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。


翻訳するのが大変なわけです。
また普段の会話の中でも主語は省略されます。
例えば、ある老夫婦の一人娘が、結婚して家を出て行きます。
そして、近所の人がその夫婦に声をかけます。
「お寂しくなりますね」

ごく自然な会話のようですが、主語がありません。
だからといって、誰が?と聞きなおすようなことは、決してありません。
つまりこうした主語のない表現は、ある感覚や状況、
共通の経験があってそれらを共有するところから生まれたのだと思います。
ですから、「私たち」とかいう主語で置き換えられるわけでもありません。
この言葉に誰が?と問えば、次にどうして?となり、
どんどん野暮な会話になります。

この表現の違いをやや強引に比べて図解をしてみますと、
主語がある表現には、ある種の方向性(ベクトル)が存在しいています。
I love you. とかですね。(ある力の方向性の存在)

思い

 

これに対して、主語が無い表現では、ベクトルは存在せずにある場の形を表現しているのではないでしょうか?
月が綺麗だねと言ったとき、一緒にいる人やこの空間を含めて佳いと言っているわけで、方向性がありません。
思い出

さて、ではこの表現の違いと拡散的集中観とどういう関係があるのでしょう。

主格の無い表現は、前提として共存や共有を目指していますが、
主格の有る表現は、個の領域で起きていることの説明です。
誰でも他人のことは、理解が難しいし、その人に興味がなければ意味がありません。
一方、状況や経験の共有は、比較的理解しやすそうです。
つまり、どちらが伝えるという手段として優れているかと考えれば、
主格がない表現のほうに、軍配が上がりそうです。

そして、伝える手段としての演技においても、主格をさけて、拡散的集中を
作ることにより、観客との距離を縮めてきたのかもしれません。
誤解しないで欲しいのは、そうした効果を計算してそうしてきたのでは無く、
日本文化の素養として、受け継がれて来ているのだと思います。

集約的集中には、あるベクトル(力の方向性)が生じやすく
刺戟に対する反応をうながすような感覚がうまれます。
逆に拡散的集中は、方向性なくその場に対して馴染んでいくわけです。
この場合、はっきりとした力はなく、同調することで感覚がうまれていきます。

「演技」といわれる個に集約される表現では無く
「芸」という拡散的集中による個を分離し、観客との経験の共有を図ったわけです。
それには、同調感覚という感性によって引き起こされていきます。

では、具体的にどうやって拡散的集中による分離をするのか
少しずつ紐解いていきたいと思います。

まず、その前に感覚、つまり五感について考えていきましょう。

 

つづき

お稽古はじめるよ~

 

 


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