主語の喪失

niwahana4

 日本語はしばしば、主語が省かれて表現されてしまう。
 日本人の曖昧さのあらわれでもある。このことは外国人には理解されにくい。
 というのは、外国語はほとんど場合、主語がないと文章が作れないからだろう。

 翻訳が難しいという例題で有名なのが、
 川端康成の小説「雪国」の冒頭の部分

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった

 この文の主語は、たぶん主人公だと思われますが省略されています。
 サイデンステッカーによる英訳では
 The train came out of the long tunnel into the snow country.

 ここでは汽車が、主語になっています。主人公を主語にしてしまうと客観性がなくなり
 情景が広がらないと判断したのでしょう。

 翻訳をする場合、何かを主語にしないといけないのですが、たぶん何を入れても
 情緒がなくなってしまったり、場面の広がりが表現できなくなってしまいます。
 これは、なぜなのでしょう?

 つまり、この文章で表現されている情景は誰のものでもないのです。
 主語は省略されたのではなく、共有されたのです。
 汽車がトンネルを抜けた事実のことはどうでもよく、
 急に広がる雪景色って、経験ありますよね?と経験の共有を促しているのです。
 この経験の共有は、価値判断をしません、だから情緒が保たれているのです。

 ですから、そういう風景って綺麗ですよねとか
 寒そうで嫌だなとか、誰かが自分の考えを言った時点で情緒は消えてしまいます。
 この情景の美しさは、個人の意見が排除されたところにあるわけです。

 こうした共有感覚を日本人は大切にしてきたのだと思います。

 例えば、近所のある夫婦のひとり娘が嫁いだりして、家をでないといけない
 そして、近所の人が、こう言いました

 お寂しくなりますね

 さて、誰が?
 夫婦が?近所の人が?娘が?家が?街が?。。
 誰でも良いのです。こういう状況の感覚を共有しているのです。

 私たちは、普段ついつい科学的に物事を考えてしまい
 まず最初に価値判断をしようとしてしまいます。
 そして、原因と結果を探ろうとしてしまいます。
 こうした習慣が、物事をはっきりとさせてしまい、感覚の共有が難しくなっています。

 どんなことでも言葉にしないと伝わらないと言われていますが、
 そうした脅迫概念が、なんとなく日々のゆとりを無くしてしまっているのかもしれませんね

 私たちは、個人の価値観を越えた感覚の共有をもう一度、大切にしてみたいですね。

 

 落とし差し

 

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