ハリウッド的アプローチと比べてみる?
実際どうアプローチをしてよいのかを考えるため
とりあえず、既存の養成所などがしているカリキュラムと比較して考えてみる
ごく一般的なハリウッドシステムの入門における項目
・人前でリラックスする方法
・五感の記憶
・感情の解放
・役へのアプローチ
・マイケル・チェーホフメソッド
・メソード演技
☆人前でリラックスする方法
人前でなにかすることは、日本人は得意では無いと思います。
もともと、何かを主張するということが、道徳的によろしくないという
文化が根底にあるおかげで、人前でなにかするということに抵抗を感じるのは
ごく普通のことだと思います。
またこれは、日本人らしさにもつながる大事な感性でもあると思います。
では、どうするのか?
何か他の事に集中すれば良いというのが、ハリウッドの方式だと思われます。
しかし、そもそも緊張するというのは、自分がなにかに評価されるという
意識があるからだと思います。自分の事を、良いと思ってもらいたい。
その気持ちが、緊張へとつながるのだと思います。
私たちは普段、人前で生活していますが、だからといって緊張して何かを
しているわけでもありません。つまり、どう思われてもいいやと
どこか、ひと目を気にせずに行動しているわけですね。
ところが、舞台に上がった瞬間に、評価される立場に変わってしまう。
自分がどう見られるのか気になってしまうわけですね。
ですから、自己表現とリラックスという相反する事に立ち向かう必要があるわけです。
この点において、日本的演劇アプローチはどうなるのでしょう?
まず、集注とは自我を消すことから始めますから、自意識が残っていて
見られているという意識は普通はなくなるのでしょう。
つまり演じている間は評価はどうでもよくなる訳です。
例えば能の場合、出の前に鏡の間があります。ここで、世俗をすてて役を頂く
自分ではなくった状態が、舞台の上での役になるわけです。
演じているのは自分では無いわけですから、評価は関係ないわけです。
ですから、人前でリラックスをする方法というのは、あえて
そういう技術を学ぶ必要性があるわけでは無かったのでしょう。
☆五感の記憶
普段何気なく使っている五感も、いざ舞台に立つとうまく機能しないことがある。
そのため、五感をしっかりなぞって、練習することによって舞台でも
普段通りの自然な演技ができるというわけです。
また、五感を確認することによって、実際にはないもの。
たとえば、珈琲カップに珈琲がはいってなくてもその味を再現して
まるで、おいしく珈琲を飲んでいるように見せることができる。
そして、さらに。たぶんこれが重要なのだと思うのですが、
五感に潜んでいる。感情の記憶を呼び起こすことができるということです。
この五感に関しては、日本型のアプローチ方法では、かなり違うところだと思います。
そして、賛否が分かれるところかもしれません。
では、どうなのかと言いますと、乱暴な言い方をすれば
五感を切りすててしまいます。また、切りすてないまでも、現代とは違った
使い方をします。
例えば、能で面を付ければ、表情や声は奪われます。視覚も動きもかなり
制限を受けます。そうした中で、行われる表現とは、外に発するものではなく
内的に動くものを感じることから始まるのでしょう。
つまり。外面を動かすのでは無く内面を動かすわけです。
このとき、外面と直結している五感は、返って邪魔になると判断されるわけです。
自己を捨てると同時に、五感も封印するのかもしれません。
しかし、内面ばかり動かしても、表現にはつながらないではないのかと
現代の人は考えるでしょうけど、内面が動けば、それを見ている人の内面も
同調して動くと考えられていたようです。
☆感情の開放
普段は感情を押さえて生活をしているわけです。
ですから、その習慣が表現の邪魔をすると考えるわけです。
しかも、自分を越えた表現を目指すなら、自分の枠を壊したいわけです。
そこで、感情を開放する方法を学ぶわけです。
そして、起きた感情を表現へとつなげて自由な表現を実現するわけです。
このアプローチは少し心理療法的であったり、
日本人から見ると、宗教っぽくみえたりと少し抵抗を感じる所でもあります。
人前で自分をさらけ出すということ、それが自己表現だとすると
ちょっと間違えると、羞恥心がない方が良いように思われるし、
周りを気にしない人になったり、自己中心的になったりと注意が必要だと思います。
そして人によっては、かなり自分に無理な課題を課することになります。
ですから、精神的に追い込まれることも多いようです。
芸術家が麻薬に手をだしたりするのもこうした背景があるのかもしれません。
これも、日本的アプローチでは、五感と同じように、自分をまず捨てるわけですから
自分をさらけ出す必要もなければ、自分を越える必要も無いわけです。
だって、自分では無いわけですから。
感情を開放するわけですが、それは日本の場合は同じように内面的で有り
必ずしも外に向けて発散するものでもないわけです。
そもそも、感情と集注というものは別のものであり
感情をコントロールしようとは、最初から考えてないのかもしれません。
☆役へのアプローチ
役へのアプローチ方法は色々あって各自が見いだすものでしょうけど、
大まかに言って目指すところは、役と自分との融合を考えるわけです。
自分らしい個性を考えれば、役を自分に引き寄せるわけですし
作品のために自己を埋没させても良いと考えるなら、役に自分を近づける。
いずれにせよ、自己と役とが同一体であることを目指すわけです。
ですから、その役を演じている間は普段からその人になってしまったり。
もう仕事が終わっているのに、役を引きずってしまって困ったりと
ひどい場合は、ノイローゼになる人もいるようです。
こうした、麻薬の問題(自己の開放)や精神的な問題は
映画ブラック・スワンの中にも描かれてる内容ですね。
まあ、そういった状態になることが好きならしょうがないですけど。。
では、日本ではどうなんでしょう?
まず、役は自分で作り出すものではなく授かるものとして捉えています。
そして、先ほどから言っているように、自分では無いのです。
これは、ハリウッドが目指す。融合や統合ではなく分離状態です。
つまり、いかに自分と引き離すかが手法になるわけです。
自分と役は、平行線上で生きていくわけです。ですから、私生活には
影響を与えませんし、役から離れることに対して様々な工夫がされたようです。
一見同じようなことのようで、真逆でもあるわけで、面白いところだと思います。
そこで、そんな演劇で面白いのか?と思われるかもしれません。
我を忘れて、役になりきるから楽しいのでは?と
これは、もう価値観の違いですから、良い悪いでは判断できません
ただ、なんとなく違いを言ってみるならば、たぶん
役と合体する楽しみは、個人的な満足である可能性がありますが
役と分離する楽しみは、集団的な楽しみに転化することができる可能性が
あるのだと思います。