立つというイデオロギー

2017-03-05

人は立ったことによって、動物から人間となった。
そして、あらゆることが劇的に変化をした。
そんな話から始まったら収拾がつかなくなるのでしませんが、
何気なく毎日行っている、立つという行為は、
実はとても奥が深い意味のあることなのかもしれません。

その立つこのとのイデオロギーに関して、しっかり立つとはどういうことなのか?
そこには相反する二つのイデオロギーがあるように思います。

一つ目は、大地との一体化をはかり安定する立ち方
大木や高層ビルの様に、大地にしっかり根をはり、微動だにしない様に立つこと。
近年の学校教育では、こちらのイメージが強いかもしれない。

↑Yahoo画像検索より拝借。

腰を落として踏ん張るとか、大地を蹴るとか、足を地に着けるとか、
板につくとか、こうした言葉の解釈の一つ一つが、
大地との一体化を試みるある種の安定感を求めるイデオロギー。
大地を不動のものと考えて、あてにしているわけです。
サッカーの日本代表が海外での試合で負けたとき、ピッチコンディションが良くなかった。
と言い訳をしたりすることがありますが、これはまさに大地をあてにしてる証拠ですね。
つまり、不動の大地と反発(利用)する事によって力を得ようしているわけです。

二つ目は、大地と分離し、同調をはかる立ち方
僕は、以前能装束を着せていただく機会を頂き、その時の写真をあとで見て思った。
自分の感覚では、能装束を着て、お面をかぶったときなんとも言えない自分の中の
宇宙観みたいなものを感じました。ひょっとしたらうまく踊れるかも?と思わせてくれた。
そして、写真を見て思ったのが、なんだろうこの浮遊感は?

しっかり立つという固定概念が、崩れるような瞬間です。
これは、もう僕が上手いとか下手とかではなく、
能装束が表現しようとしている世界観としか思えないのです。
つまり、踏みしめるとか板につくとか、そういう言葉の意味は、
大地との一体化を目指して表現されたわけではない。
大地とはっきり分離し、大地をあてにしないで立つということ、
そうしたとき初めて、大地と同調し恵みを得られるというイデオロギーである。

日本は農耕民族であり、水田が多くある。
その水田で作業するのに大地を踏みしめては動けない

古武道である撞木の型は、現在は好まれない。
しかし、この型は大地のコンディションに左右されにくく重宝されたといわれる。

力とは、地(ち)からであり、そのために大地を蹴るような行為をしないのである。

良かったら、僕の田舎の万灯祭りの動画を見てください。
50キロもある万灯を一人で持つのですが、大地を蹴らず、バランスで持つのです。
足は、豊年を祈って、大地から救い上がるように足を返しているのがわかります。
大地からの恵みですね。

こう考えていくと、日本文化に即した立ち方は後者であり、
現在の発想は、大地が硬くしっかりた西洋的な考えなのかもしれません。

居合で有名な黒田鉄山さんの著書のなかで盛んに出てくる
浮身という言葉もこのことかもしれない。
前者的な発想で立てば、すぐに居つきが起きるのは明らかである。
なぜなら、その場で安定を図れば、もう動けないはずだからである。

武道や芸道で、必ずぶつかる。初歩的な葛藤。
腰を落として踏んばれ!馬鹿野郎、動きが遅いんだよ!
もっと力を入れろ!動きが硬くてど素人みたいだぞ!
これらは、こうしたイデオロギーの履き違えから来ているのかもしれない。
というよりは、後者的は考え方は学校教育の中には存在しないわけです。
ですから、知らないのが普通なんです。でも、ここからがスタートです。たぶん

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