12月, 2016年

和の演劇を和装で観る会

2016-12-21

tateshidanpei

みんなで和装して、和の演劇を一緒に観にいきましょう!
もちろん、芝居に興味あれば洋服でもOK!
みんなでぞろぞろ集まって楽しく芝居を見て
そのあと飲みながら芝居の解説とか感想とか、
あーでもない、こーでもないと盛り上がりましょう。
芝居は、壌晴彦さん率いる演劇倶楽部「座」
基本のしっかりした素晴らしい日本らしい芝居が鑑賞できます。
僕が太鼓判押します!!
殺陣師段平師は、実在の人物、新国劇の頭取であり殺陣師であった
市川段平さんの人生をモチーフに作られています。
初演は新国劇で、島田正吾先生が主演。
そのご劇団青年座で再演しますが
その時の殺陣は、なんと僕の殺陣の先生でもあります
國井正廣先生が殺陣をつけていたらしい~~。
僕は映画で「とんぼ返り」しかみていませんが
それは、面白い話です。森繁久彌先生、山田五十鈴先生、芦田伸介先生など涙が出るほどの豪華キャスト!僕の仲良かった先生達です。
これも興味があったら事前に見たらさらに楽しいと思います。

日時:2017年2月11日土曜日15時新宿御苑前駅集合予定
料金:伝ふプロジェクト、侍クラブ特別価格
¥5,000円普通に買うより安くしました!!
もちろん、終了後の飲み会は割りかんです。笑
ドレスコード:和装が好ましい。
着物が着たいけど、持っていないとか着ることができないとか
何でも相談にのりますので、お気軽にご相談下さい。
また、違う日なら行けるのに~と言う方も
チケットの相談にのります~~。
よろしくお願いいたします。

チラシはこちら

*詠み芝居
演劇倶楽部「座」さんの特徴の一つに詠み芝居があります。
日本の美しい言葉を大切にというコンセプトで
物語の地の文(戯曲でいうト書き)を語り芝居をします。
本来はそれらは読み上げずに演出で表現しますが、
あえて浄瑠璃のように読み聞かせてそれを芸にしていきます。
最初は少し戸惑いますが、とてもしっくりとして、
わかりやすい芝居になっていると思います。
演じる方は、大変だと思いますが、
とても面白いこころみだと思います。
また、みなさんしっかりした発声をしてますので、
とても聞き応えがあります!
写真は前回公演にて、代表の壌晴彦さんと記念撮影

12472512_1085461231520436_1518616357892418709_n

今回のお芝居ではありませんが、劇団の動画↓

問い合わせはこちらへ

 

 

 

第49回侍クラブ稽古会

2016-12-13

samurai11

ブログに型の有効性について書いたので
そんなことをやってみた。
自由のない型は崩れるが、型を取ったときに自由を確保すれば
型は崩れない。そうでなければ、実践的でないと思う。
状況はつねに違うわけだし、突発的なことも起きる
そのたびに型を取り直したのでは、意味がない
型をとったら最後、雨が降ろうが槍が降ろうが、関係無い
あらゆる状況と環境を共にしない立ち位置に入るわけです。

理論上はそういうわけですが、
そう簡単な話ではないわけです。笑
でも、まあなんとなく出来たかな~~??

さすが、侍クラブも四周年を迎えると、
言っていることが、洒落臭くなっていますね。

僕たちはやっていることは、ど素人ですが、
逆に言えば、プロでもしないことをやっています。

それは、実感として、人間国宝と言われる人たちを見てきたし
日舞でも文楽でも狂言でも殺陣でも演技でも三味線でも
誰一人、一度も教えてくれたことの無い内容だからです。
僕は、才能が無くてどんなことをやっても
すぐに壁にぶち当たる。どんなに努力してもその壁はぶ厚かった。
でも、どうなんだろう?
その壁の向こうはこんな感じなんですよ。
って、ことをやっているわけです。意味分かんないですよね。笑

僕のように才能が無くて能力の壁がいっぱいあるひとは
たぶん、楽しいとおもいます。自虐的な意味で無くてね。
どう努力して良いのかなんとなくヒントが得られると思います。
そして、人にはすごい多様性があることが分かります。
個性とか自分らしさとか、そんなこと結構小さいことだなって
人と一緒につくる多様性の豊富さ気づいてそのことを体験してもらえたら
明日からきっとポジティブシンキングになれますよ。

おっと、侍クラブ稽古会ではじめてポジティブな発言。笑

四年間皆様に支えられて来ました。
心から感謝しております。

dscn3122

dscn3130

dscn3141

 

型の有効性について

2016-12-11

zassou

型は自由を確保するためのものだった。
ということを今更ながらだが、最近知った。
型は一見、止まってみえる、そして固定されて見えるが
それは、外見のことであって、内面的には全くの自由である。
全方向に難なく動けるし、その感覚があまりに自由なので、
だから結果として止まってみえるわけです。

普段、私たちが自由という言葉を使うとき
何かの欲求の裏付けがあったりして、
自由と叫ぶ割には、進む方向性がはっきりしていたりする。
欲求のはけ口が自由だと勘違いしているわけです。
ところが、全方向に自由であるとき人は、かえって動けなくなる
これが型の世界の本質なんだというわけです。
この自由を失ったとき、居つきがおきるわけなのかな?

そして、この自由を確保しているとき、我々は、完全に集中している。

このことも勘違いしやすいところだと思うのですけど
集中は、精神活動だと考えてしまいがちです。
「集中しなさい!」と先生に言われれば、
精神を操作して何らかの集中状態をつくろうとしていたような気がします。

ところが、型を使えば、精神活動とはまったく無関係になるわけです。
型をとるという意志だけを発動すれば、それですむわけです。

これを例えば演劇で考えるならば、演者は、所作を型に入れれば
それだけでもう演技の半分は終わったようなもので、
しかも精神は、使われていないから、感情に気を配ることがとても簡単になる。
それを知ってしまうと、もうそうとしか動けない所作が随所に出てくるわけです。
つまり舞台で型どおりに動いていれば、決して集中が切れることの無い
はりつめた演技を続けることが容易に実現できてしまうわけです。
とっさに予期せぬ事件が起きても素にもどることもなく集中は持続するわけです。

こんな素晴らしい型の世界ですが、問題は、この型が、ほぼ絶滅危惧種なので、
考古学者のように動きの中の型を発掘することが現状強いられることになります。
ただ、それは楽しい時間になるかもしれないような気がしますが、、、、

たとえが悪いかもしれないが
子供が箸と茶碗をちゃんと持てないのは、
子供の自由でしょ!ではなく。それは欲望のまま動物のように生きることで、
本当の意味での子供の自由は、ちゃんと型を教えるべきことなんだと思う。
型が出来たとき初めて、自由を確保できる。あとは好きに進めばよい。

これらのことを判で押したように精神論として片付けることを近代はしてきた。
そして、型なんて古くさい。型は破ってこそ価値があるものなんだと
型を学ぶことすらせずに破棄してきたのが近代だと思う
そのように思想誘導をしてきたのは、科学では理解できない世界だからだと思う。
だから、合理主義で、箸と茶碗は、ものが食べられれば良いんでしょうと、
結果だけを求めて、せっかくあった型を捨ててしまう。
型を失った人は集中を欠き姿勢は悪く、ストレスだけがのしかかってくる。
(精神にとって楽な姿勢は、身体にとっては辛い姿勢であることが多い)
とても、ものを食べて美味しいなんて感じられる身体になっていない。
美味しいって感じるのは、身体ですか?精神ですか?
だから化学調味料を美味しいって感じるようになるのかも?

さて、みなさん、そんなわけで一度で良いですから
脳でする集中ではなく身体がおこす集中観を味わってみてもらいたいものです。
そうすれば日本文化の謎がかなり解けると思います。
動くことで集中が切れるのではなく、集中が増していく、
そんな経験は楽しいに違いない。笑

そういった経験する場も、学ぶ場も無くなってしまったことが、寂しいですね。

侍クラブ

演技ラボ

宣伝かよ??

 

 

 

 

 

才能が無いという才能

2016-12-07

hana6

自分はつくづく才能がないと思う。
それなのに俳優などという才能がなければ到底無理なことをしてしまったわけだ。
かなり自虐的な選択をした人生だと思う。
それは、もう取り返しがつかないことだから、まあよいとして、
ところで、才能って何なのか?と素朴に考えてみる。
そんな、どうでも良いことを考える時間があることは、
まさに才能がないから出来ることである。

それで考えててハットしたのだが、
みんなが気軽に才能があるとか無いとか口にするのは、、、、
まさかと思うが、
お金になるか、ならないか?
つまり経済価値が、あるかないかって判断で、言ってるのでは??

そんなことはないよと否定するだろうけど、
もし経済価値をまったく考えないとしたら、どうやって
才能があるとか無いって、言い切れるのか判らなくならないだろうか?

例えば、自分の考えたように身体を操れて完成された動きが出来る人がいる。
それは、才能の塊だと賞賛されるだろう。
しかし、そのことが1円の価値も生み出さない世の中だとしたら
本当に才能があるって、言ってもらえるのだろうか?

例えば、子供が絵を描いた、
それを見て親が、自分の子は才能があるって思う。
しかし、子供の才能を経済価値という天秤にかけて言ってるとしたら!
少し怖い感じがする。
そんな、教育で自分の子供はちゃんと育つのかな?
はなはだ疑問である。

経済活動というシステムの中で生まれ、
そのシステムの中で生きて行くことしか出来ないのかもしれない。
しかし、自分の才能を経済価値という天秤から下ろして考えたとき
無限の可能性が広がるような気がするのだけど、僕だけかな?
才能の壁にすぐにぶち当たるのは、
経済活動と才能は本来相反するものなのに
同じレールの上に乗せて考えようとするからだと思う。

もちろん、僕たちはお金がなければ生きていけない世の中の中にいる
また一方で、小金を稼いでいても豊かになるのは難しいことも知っている。
とても生きて行くには難しい世の中になってきた。

つまり才能って、あるとかないのとかって考えると短絡的になるし、
自分の才能の限界をかんじるってことをしていると辛いだけだし、
自分の才能に気づくか気づかないかってことになるとまた違ってくるし、
そんなとき、その自分の才能を経済価値で測ったら、身も蓋もないというか、
ほんとにごく一部の人たちのため世の中になってしまう。
例えば、ゴッホは絵の才能があったのですか?
生きている時の経済価値で考えたらたぶん、全く無かったんですよね。
つまり、経済活動で判断される才能はただの風俗だってことなのかもね。
そして、経済価値から離れられない才能は芸術をすることはできない。

才能が無いって感じられるのなら、
それはきっと何か違う価値観の才能があるってことだし、
そんな役に立たないことに集中している人って
実は、世の中に無くてはならない存在だし、
経済価値の無い物が力を持ったときはじめて文化が生まれるわけだし、
つまり才能が無いのは、立派な才能であるとも言える。

経済価値と有効性に裏打ちされた才能は芸術にはむかないってこと。

 

こんなパラドックスを書いてどうしょう?
ただの言い訳に聞こえたら、悲しい。笑

 

 

 

 

 

Copyright(c) 2013 伝ふプロジェクト All Rights Reserved.