集中がくずれる時

kumano1

 ある舞台で、僕は失敗をしてしまった。
 予定外の動きをしてしまい、主役の人の動きをふいに止めてしまった。
 僕は、終演後、ひどく叱られた。しごく、ごもっともなことである。

 しかし、怒られながら、どうしてそんなに怒るのだろうと逆に不思議に思ってしまった。

 たぶん、僕の予定外の動きのために、主役の人は集中が途切れてしまった。
 いや、怒りかたからすると集中が崩壊してしまったのかもしれない。
 たった、一回の接触が、このような事態を招いたわけです。

 素に戻るなんて、言葉がありますが、舞台とかしていると、そういった経験は
 誰にでも、二度や三度、いやもっとあることだと思います。
 (そんなことはないって?たんに僕が、技術不足かもしれませんけど。。)爆

 集中とは、こんなにも崩れやすいものなのでしょうか?
 これは、僕の技術不足でない証拠に、舞台の始まる前に、
 携帯の音を切れとか、いろいろアナウンスしてるでしょう?これって??
 それでなくても、子供が騒いでると集中できないとか、
 近くで他人にチラチラ動かれると気が散るとか、言いますよね。
 ゴルフとかテニスとかもショットの前は静かしろって言うでしょう。

 ほらね、集中って、気むずかしいんですよ。
 これって、なぜでしょうか?
 これら集中って、砂上の楼閣なのかもしれませんね。
 集中は自分からも壊れます。
 例えば、動くとき(動きに集中がついてこない)
 言葉を発するとき(何に集中していたか見失う)
 人と接触したとき(感覚の発生が集中を壊す)

 これらの外圧から、集中を守るために、強固な殻を自分の周りに張り巡らし
 孤立することによって、自らを守りその果てに自分すら見失う。集中による無我?
 そして、集中という名の、ただの勢いに乗って行動し、気がつけば終わっている
 あ~あ、良かったとても充実していた。となぜか充足感だけが残る。
 こんな具合が、失敗した場合の舞台に多いパターンですか?。
 自分の満足度と観客の評価が割れてる場合はこんなケースかも?

 この場合の問題点は、明らかに自己完結だけしている点にあるのでしょう。
 この集中に、他者が入り込むことができるでしょうか?
 できるとしたら、あらかじめ想定された範囲の中だけになるのでは?

 だから、たった一回の僕の想定外の接触が、主役を張るような俳優さんでも
 自ら作った集中という楼閣をみごとにまで粉砕してしまったわけですかね?

 つまり、こうした集中の仕方は、努力した割には、崩れやすいし、
 それによって失うものも多いような気がします。
 ただ、一般的には、集中しなさいといえば、
 こういった種類のことを教えられてきたと思います。

 しかし、この集中方法には、ある大きな矛盾を抱えていると思います。
 それは、五感を鋭くしろと言う割には、外からの刺激に弱いということです。
 なぜそうなるかというと、集中する対象が必ずあり、それが対象であり続けないと
 いけない。実体であれば、それが変化しないこと、実体がなければ、空想になり
 絵に描いたもちがやはり変化しないことが望ましいのです。
 つまりは、どちらも変化に弱いわけですから、外部の情報にも弱いわけです。

 だったら最初っから、変化し続けているものを集中すれば良いのでは?
 と、こう考えることも出来るわけです。

 ここで重要なポイントは、集中から集注へのシフトが必要になるということです。
 一点に向かう集中ではなく、分散されていく集注です。

 この集注観というのが、実は日本文化を根底から支えているものだと思います。
 永遠に変わらない愛などというものに集中するのでなく
 諸行無常の栄枯盛衰、四季の移り変わりに、集注をしていけば
 おのずと対象は、無いものへと向かいます。
 対象が無いのなら自分も無いほうが標準をあてやすくなります。
 これが、日本的無我になることなのかもしれません??

 しかし、無い者が、無い物に集注して、一体何を表現するの?
 そう、考える人もいるでしょう。もちろん無い物を表現するのかな?
 じゃあ、なにも起こらないのでは??
 実は、なにも起こらないのでは無く、感覚だけが動き出しているのです。
 これが、前回書いた、身体言語なるものの正体になると思うのです。
 ここまでくれば、もはや表現という枠ではなく、
 経験という枠にまで移行していくのではないでしょうか?
 表現の伝達から、経験の伝承へと形がかわっていくのです。
 もし、このことが可能なら、ほんとうに夢のある話だと思いませんか?

 外部からの情報を認識せず、感覚としてゆらいだままにする。
 そのゆらぎを身体言語として、伝えていくわけですね。

 このとき外部の情報が大きければ、大きな波として身体をつたい
 砂上の楼閣だったら流されてしまう集中は、その波に乗ってさらに深い集注へと
 誘えるのでしょう。
 もはや、他者からの接触は、集中をみだす外敵では無く、集注を深める
 良き友として、その場に存在できるのだと思います。

 

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