退歩のすすめ 藤田一照×光岡英稔

キリスト教においては、神は泥から人間をつくったとしています。根底のところで人間の身体は土塊にすぎないのです。そこに精神という神に与えられた崇高なものが宿らない限り、生きるに値しない。なぜなら身体はいずれ滅びる、取るに足りないものでしかないからです。だから身体は屍体の意味も含みます。
しかし、そんなつまらないものであっても、唯一神に授けられた高邁な精神が機能すれば、永遠不滅の神と交信できる。ここでようやく身体が軍隊と結びつきます。どちらも神がないと機能しません・神は「絶対的な大義名分の源」なんです。

三元分立(さんげんぶんりゅう)を理解して試してしまうと必ずと言っていいほど失敗をします。三元分立とは三つのことを同時にするわけではありません。三元分立は内を二つに分け「内之内」「内之外」あと一つを「外」とし「どのベクトルに自分の集注が向いているのか」「どのベクトルとエリアに気が向いていて、どのベクトルとエリアに感覚が生じ、どのベクトルとエリアから動きが生じているのか?」を鮮明に知って行くために分立を用います。
この時に「行為、動き」など外へと向かうベクトルに集注観を向けると「動き」「行為」へ気持ちが引っ張られてしまい、内面的な動源へ集注が向かなくなります。動因と動源がある体の方へ気の集注を向けていくと、感覚が身に生じ、その感覚から動きが生じます。また、いったん動きが行為として収まったら、また改めて自然と集注が感覚・身の方へ向かおうとします。そこで感覚を意識することに集注が向かいがちなのですが、その古いバーチャルな感覚から離れるため、新たに三元分立が生じるよう、気の集注を気の偏在地である体へと向けていきます。そこからさらに内面を洞察し、気と感覚を分け、感覚と動きのベクトルが別れて生じるよう気の集注を体の「なさ」、空洞や虚空間へと集注を向けながら観ていきます。この「なさ」から「ある」ところへ自然と集注が移行する過程の中で、私たちが捉えられる感覚経験とそれに従った自然な動きが生じます。
車の中で音楽を聴きながら運転して目的地に向かうとき、運転のことを何も意識せずに考えてないから三元が分立して同時に進行しています。ところが初心者は運転していることに意識的になってしまいますから、「行動の方向、感覚、気の向き」が意識によって一元一立化してしまい滑らかに運転できません。何かと焦ってしまいます。物事がうまくいく時は自然と三元分立が起きているのです。
ところが、およそ今の教育というのは、一元一立化することを主たる目的にしています。意識をもって自分の行為や行動に集中し、気も感覚もそこに向けさせることを良しとします。そいういう身体性や感性になるから武術や禅の基礎が成り立たなくなっているわけです。

 

退歩のススメ: 失われた身体観を取り戻す

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