他者と死者 内田樹

テクスト・師・他者

 私たちがここで間違えてはいけないのは、レヴィナスがこの師に就いて学んだのは、聖句についての権威ある解釈ではない、ということである。そうではなくて、聖句を解釈する古代中世のラビたちがどのようにして聖句の意味を未解決状態にとどめたのか、どのようにして聖句の未知性を毀損することなく、深遠なる知見を無限に引き出し得たのか、その「作法」をレヴィナスは師に就いて学んだのである。
 弟子が師から学ぶのは実定的な知識や情報ではない。聖句から無限の叡智を引き出すための「作法」である。もし師が知識や情報を教えたのであれば、優れた弟子であれば、どこかの段階で師を凌駕し、師を軽んじることもありうる。しかし、タルムードの師弟関係ではそのようなことは起こり得ない。というのは、弟子が師から学ぶのは、師がさらにその師から律法を学んだときの「学ぶ作法」だからである。
 情報理論が教える通り、学知の「内容」は相伝によって変化し、情報の「汚れ」を蓄積してゆく。どのような保存方法をもってしても、純粋状態で古代の聖賢の学知を保存することはできない。しかし、あるラビがその師であるラビから学んだとこの「学ぶ作法」は純粋状態で継承することが可能である。なぜなら「作法」は「もの」ではないからだ。

 「作法」とは私たちが星を見上げるときの視線の仰角に似ている。
 芸道において、「指を見るな、月を見よ」ということがよく言われる。
 私たちが師から受け継ぐのは、師が実定的に所有する技芸や知見ではない。
 そうではなく、私たちの師がその師を仰ぎ見たときの視線の仰角である。
 師がその師を星を見上げるほどの高みに仰ぎ見ている限り、
 仮に私の師と私の間の間にどれほどの身長差があっても、
 仰角のぶれは論じるに足りない。
 視線の角度は正しく継承され、私はそれを次代に相伝することができる。

 ラビ:ユダヤ教の聖職者  タルムード:ユダヤ教の宗教的典範

 レヴィナスはこう説く。師が弟子にもたらすもっとも重要な教えとは、何よりも、外部が存在することを教えることである。それは「師の現前」というそれ自体「外部的」な経験によって担保される。
 師は、なにごとか有用な知見を弟子に教えるのではない。そうではなくて、弟子の「内部」には存在しない知が、「外部」には存在するという知を伝えるのである。「師」とは何よりもまず「知のありかについての知」を弟子に伝える機能なのである。

二重化された謎

 そのつどすでに既知であるものを既知に織り込むこと、西欧の思想における「知」の機能である。独学者とは西欧的な知の別名なのである。
 知は世界を照らし出し、世界を所有する。けれども、独学者の宿命として、彼は「双数的=鏡像的=他我的」なものを無限に列挙し、おのれの似姿で世界を充満させることしかできない。たしかに、おのれの似姿だけで満たされた世界はすみずみまで暴露され、熟知されている。けれども、おのれの似姿と向き合い、おのれの発することばに耳を傾け、おのれが書き記したことばを読み、おのれが意味を付与した事物の意味を再発見することだけしか許されないとしたら、人間の「自由」とは何なのか?人間はなにを「経験」していると言えるのだろうか?

死者の切迫

 この文章は「ホロコースト」の死者たちに対するレヴィナスの構えがどういうものであるかを私たちに教えてくれる。死者たちのことばは「永遠に残響する叫び声」であり、それを記録したり分類したりカタログ化したりするこは私たちには許されない。生き延びた者に許されているのは、その叫び声の中に「思考」を聞き取り、それを、「あの時代を生き残った私たち一人一人がそこにめまいのするような既視感を覚える種類のフィクションとして語り継ぐことだけなのである。
 それ以外の「証言」の仕方は、ラカンが言ったとおり「死者たちが許さない」。だから、生者たちは「召還する者」ではなく「召還される者」として自らを位置づけることになる。死者たちを生者の法廷に呼び出して、その証言を語らせるのではなく、生者たちが「死者たちの陪席する法廷」に召還されて、そこで自らの有責性について弁疏することを求められるのである。
 だが、「死者たちの陪席する法廷」で生者たちが語ることば、それはいったいどのようなものでありえようか?

 

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