日本文化と動的思考法

日本文化

日本文化のことなら、日本人なら誰でも知っている。
普通は、そう思いますが、実は文化の性格上、
当事者が一番、分からないし知り得ない事でもあるのです。
なぜなら、当事者は客観的に自分を見ることが一番、難しいからです。
しかし、もうすでに失ってしまった文化があるとしたのなら、
客観的に冷静に検討することが可能になっているはずだろうという訳です。
明治維新から、150年あまり、多くの日本文化は、失われてきました。
ですから、今こそ、この失われた文化を、考古学の様に掘り起こして、
研究してみることが可能であるし価値が、あるの事だと思います。
文化的な発想は、その発想法すら失われ、
すべて科学的発想にとって変わり、ますます、ゆとりのない社会に
効率化された無駄のない社会になりつつあります。
なぜ、日本人が隙間だらけの草庵を佳しとしたのか?
社会から隙間がまったくなくなってしまう前に、考えてみませんか?

身体感覚で思考する日本文化

思考とは、そもそも脳がすることで、精神の分野の仕事と考えるのが普通です。
そして精神は長らく、身体をコントロールするような形で君臨してきました。
また精神は、身体には知性がなく野生があるだけだと印象づけもしてきました。
しかし、実際は、どうなんでしょうか?知性には制御機能がないのです。
第二次世界大戦からも分かりますように、知性はかなり野蛮なのです。
人はやりたいことをやりながら、生きていくのが良いと推奨する風潮もよいのですが、
では、その人のやりたいことが人殺しだったらどうするのか?
真剣に考えれば、明確な答えが難しい問題なのです。
こうした精神が作る二項対立は、糸口の見つからない迷路のようですが、
古来日本人は、精神を無にし、身体に委ねることで解決策を見つけてきました。
身体に任せたことで、身体感覚が発達し、自分の身体と丁寧に向き合うことが出来ました。
こうして、自分の身体と真摯に向き合うことで繊細な文化を作り上げていったのです。

日本の職人芸は、すごいということをよく耳にしますが、
それは、手先が器用だということを言っているのではないと思います。
よく練られた身体で、身体感覚を駆使して作業することを可能にし、
芸とか術といわれるまでに技術を高めてきたのだと思います。

引く文化へと思考する身体感覚

日本には引く文化があります。
刀は引いて切ります、引き戸があります、お釣りの計算も引き算です。
柔道は、相手を引き込む動きが主です。
そして、鋸は、日本だけが引いて切ります。
どうして、日本人は鋸を引いて切ることにしたのか?
もし、現代のように合理主義であり、経済至上主義であったのなら、
中国から鋸が伝わったときに、それまで押して使っていた鋸を
わざわざ、引くように仕様をかえることがあったでしょうか?
しかし、昔の日本人は鋸を押して切ることに耐えられなかった。
なぜか?
それは、精神が仕事をしていたのではないからです。
つまり身体が仕事をしている、そして、その時に生まれる身体感覚が、
押して切ることを許さなかった、というわけなんです。

ああ、なるほどと、感心している場合ではありません、
これは、すごいことだと思うのです。
なぜなら、世界標準にNOを突きつけて、確固たる独自路線を歩んだわけです。
日本は、主張することができなくて、ダメな民族だと皆さん思っているかもしれません。
しかし主張するという行為は、精神活動の一部なのです、
ところが、身体感覚で思考する日本人は、声を上げて主張することではなく、
態度を持って、行動することで独自性を示したわけです。

もし、現代のように合理主義により、開発コストを下げ、鋸を押して切っていたとしたら
日本の職人は、その技を失い、仕事がストレスとの闘いの場になっていたことでしょう。
ひるがえって、今の世の中、仕事のストレスから逃れることが、
余暇の目的となり、従って技術も失い。労働時間だけが問題視されている現状。
何か、新しいことをしなければと言いながら、古い思考法を守り抜く現状。

ちょっと、今までの科学的根拠に基づいて考えることを辞めて、みませんか?
正しいことの組み立てで、考えた気になって、精神は悦に入りますが、
身体にとって、科学でいうところの正しいことに価値は全くないのです。
身体感覚で思考する動的思考法の世界は、研究の価値があると思います。
いや、ほんとうは緊急課題だと思っているのが、僕の正直なところです。

日本文化の切り口

★日本人の視覚感性について
近代と言われるものの特徴に、可視化と合理化が上げられます。どの企業さんもこの二つの事に力を注いでいると思います。自分の考えを可視化すること、また見えないものを見える様にするのが、表現だとするのが近代です。一方で日本人は、隠れているものに佳いという感性を持ちました。満月よりも三日月に風情を感じ、三保の松原を美しいと思うのは、富士山を隠しているからで、松原が綺麗なのではありません。 そして、見えないものを見えないまま表現する「秘すれば花」と言ったのは、そういった隠すことの有効性を感覚していたからだと思います。隠すことによって何が得られたのか、視覚のなかの日本文化について探ります。

★主語の喪失と日本の集中観について
日本語を翻訳して困るのは、主語が欠落してしまうことです。「国境のトンネルを抜けると雪国であった」は有名ですが、翻訳の難しい文でもあります。そのことと日本人の集中観に関係があるのか?面白い所でもあります。最近電車とかでゲームに夢中になっている人をよく見かけますが、この人達は集中しているのかいないのか?例えば侍の立場で考えれば、通行の邪魔になり、気配を感じることなく、いつでも背後から斬れるようなこの人達を集中しているとは言いません。では、日本人はどのように集中という行為を捉えていたのでしょうか?これは、まさに日本文化に直結する感覚になると思います。

★日本人の所作について
過去の多くの達人と言われる人たちが、「無」という言葉を愛したのは、なぜか?このことの解釈によって、日本文化を精神論と捉えてしまうかどうかのポイントでもあるところです。もちろん、そんなことは語り尽くせませんが、日本人の所作からなんらかのヒントを得られるかもしれません。所作は基本的には、学校で習ってきたであろう動きの真逆をすれば、日本的になるわけですが、身体を動かすというよりは、身体感覚を動かすわけです。所作ができると身体に対する概念が変わってきますので、楽しいところでもあります。

★非構造化する日本文化
身体には野生があり動物的な面を持っているとされています。本当にそうでしょうか?実際は、知性も野蛮で残虐性があることは、戦争が証明しています。一方身体には暗黙知と言われるものがあり、ちゃんとした秩序を持っています。

★万物のものに生命観を求めた日本文化
刀は武士の魂である。とは、いささかキャッチコピー的ではありますが、身体感覚を重視し、その中で同化や同調を求めていくうちに道具に対しての概念も変わってきます。道具を身体の一部として扱い、利用するというよりは、学ばせてもらう物として進化をとげた日本の道具たち。同化感覚を基礎とした日本人の内なる世界観が、文化を作り上げていきます。

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また、出向いてプレゼンすることも可能です。

 

 

 


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