正座ついて考えてみる

nijyoujyou

 今では、意味もなく正座をさせると、体罰になるらしい。
 正座という行為は、すっかり嫌われてしまったようです。
 日本人のこうした習慣について考えるとき、よくあることですが、精神論とか道徳とか、
 つまりは根性を鍛えるためなのだという解釈に落ちついてしまう。
 そして、そこにある意図を正当化するための科学を持ち出してくる。
 正座をしていると、膝に悪いし、短足になります。といった具合である。
 お茶にしても昔は正座なんかしてなかったし、平安時代はたち膝だったとか。
 真偽の程は、わかりませんが、
 結局の所、なぜ正座をしていたのか、理解できなくなってしまった。
 正直なところそんな具合なのではないでしょうか?
 日本文化を紐解くときに安易に精神論にいきつくのは、科学的解釈が機能しないからでしょう。
 だから、精神論に論点をすり替えて、お茶を濁しているのでは?と思ってしまいます。
 江戸時代にかなり浸透したこの正座は、精神を鍛えるためだったのでしょうか?
 徳川の政治政略に、乗らされていただけなのでしょうか?

 僕たちは、侍クラブの稽古で、たびたび正座をしていただいてます。
 もちろん、立ち回りは、居合道でないかぎりほとんどが立位で行います。
 ですから、正座は、最初と最後の挨拶だけで充分なのですが、なぜか正座が多い。笑
 なぜかというと、正座していた方が、気付く事が多いのです。
 このことは、僕も侍クラブを始めるまで気付きませんでした。
 本来立ってても出来ることを正座をしてやってみると、感覚がかわります。
 その感覚が、とても良い感じなので、僕も説明がしやすくなるのです。

 なぜなんだろうと、こざかしく考えてみる。
 よく、何か動作をするとき、腰を使えとか、下半身を使え!とか言われますよね。
 そう、そしてしっかり使うためには自由でないといけないと、普通は考えてしまう。
 だから、柔軟をしてリラックスして、ぐっと力んで腰を使ってみる。
 でも、だいたいの場合、力みすぎだとか言われて玉砕するのがおちですね。

 このことを、江戸時代の人は、逆手に取ったのかもしれませんね。
 もちろん、そんな理論が先行したのではなく、生活の知恵のなかでそうしてきた。
 つまり、正座って、下半身の自由をしっかりと奪うものであり。
 その感覚は逆に腰や下半身を上手に使うための感覚経験になりうるのでは?
 使うというのは、自由にすることではなく制約すること動けなくすること。
 そこから、感覚する自由は、今度は外部からの制約を受けない質の違う自由に変わり
 これを利用することを経験上、佳しとしてきた。
 そんななかから日本的習慣が生まれていったのでは??

 そうした観点から、正座を体罰だと解釈する現代人を江戸時代の人はどう、思うのだろうか?

Courrier


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