察するということ

nijyou

例えば子供が「お母さん、水!」
と言えば、優しいお母さんなら何も言わずにコップに水を注いでくれる。
こんな、当たり前と思っていた事は、国際的には当たり前ではない。
「水」といえば、「どうした?なにかトラブルか?」というのが、
世界的には、普通の反応なのかもしれない。
日本の教育はどんどん英語化している現状では、ただ「水」という表現は
不適切であるという評価をされていくのでしょう。
自分の思っていることは、しっかりと言葉で表現しなければならない。
それが、そもそものコミュニケーションの始まりですと、今は主張する人も多いですね。
黙っていたのでは、何も解らん、と大人が説教したり。
好きだと言ってくれないと、好きだかどうだか解らないとかね。

つまるところ、察するなんていう能力は、必要としない社会に進んでいる。
へんに、察してあげると、甘えている奴がさらに甘えるとか、
自己主張できない人間が治らないから、言うまで動いちゃ駄目だとか、
いろいろと理由をつければあるのでしょうが、結局どうしてそうなのかというと。
昔の映画「クレイマークレイマー」を見て、アメリカという社会に驚いたのですが、
たぶん察して動いてしまうと、裁判で負けてしまう。
証拠として、強いのは、文字に残す、次いで言葉に残す。
察して動いてしまったら、理論的に実証できないという理由で、証拠にならない。
まさか?と思うかもしれませんが、このことは常に自分の論理的正しさを実証することに
生活習慣を置いている人たちの文化なのではないのでしょうか?

日本のグローバル化はどんどん進んでいます。TPPの参加によりさらり加速される事でしょう。
私たちは、常日頃から、自分を論理的に実証しながら、生きていくことを強要されるでしょう。
国民総背番号制もその一環でしょう。事件に巻き込まれたら、被害者も自分のアリバイを
実証できないと被害者としても認めて貰えないのが現状です。
こんな、時代ですから、察する能力は、ほっておくと消えてしまう時が来るのでしょう。
そんな、まどろっこしいものは無くなれば良い、だいたいだから日本人はだめなんだ。
という意見もあるでしょうね。
でも、本当に必要ないと思いますか?

察する能力は日本人が長けていると思います。
だからこそ、その能力は外国の人からは嫌われるのでしょう。
なんか、不気味ですしね。
でも、このちょっと超能力っぽい文化って楽しいですよね。

少し誤解されやすいのが、察することが優しさだとか、
相手にこびを売るために、先回りするためだとか、
空気を読んで、対処するためだとか、ということが察することだと思われる。
それは、結果論であって違うと思う、察するとは、単に察すること。
それをどうするかは、本人次第。
とりあえずは、察することを磨く。
そのことが、楽しいし愉快だと昔の日本人は感じていたのでしょう。
察しあいですね。だから、恋愛も、出会いも言葉で確認するなんて
ちょっと、もったいないですから。あえて表現しない。
人は感動すれば、言葉を失う。だからこそ、その感動のままただ察することを
佳しとしてきたのでしょう。

では、どうすれば良いの?という問題の解答は、かなり遠い話になりますね。
そのことはこの「伝ふ」プロジェクトのテーマでもあります。

ただそのための一つに、刀(道具)があるのではないのでしょうか?
私たちは、自我というものに封印をして
無機質なものに魂を吹き込む。その魂は誰のもの、そしてどこから来たの?
その時、人は察するという境地の入り口に立てるのだと思う。

侍クラブ

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