道具に対する考え方
「身体を大切に」という言葉が、ありますけど、
案じているのは自分の事で、ほんとうに身体のことを心配してるだろうか?
身体は生きていくための道具だと思ってる節がありませんか?
ほんとうに身体は道具にすぎないのか?
もし、道具だとしても、この道具とはどのように扱うべきものなのか?
野口師が、かなり以前、身体はむしろお客様と思って扱いなさいと言ったことがある。
身体は生きている間の借り物ではなくお客様だから、死ぬときまでおもてなしをして
死ぬときには、気持ちよく帰っていただきなさい。と
なるほど、お客様と思っただけで、かなり考え方が変わる。
私たちは、自分たちの都合でお客様を傷つけたり、酷使したりしてないだろうか?
腰が痛いとか、調子が悪いとか、頭がわるいとか、
自分の問題をお客様のせいにしていないだろうか?
これは、かなり手厳しいですね。
もちろん、身体とは自分自身のことで、お客様と表現したのは方便にすぎない。
しかし、私たちはどこか、自分自身であるはずの身体に対して、
よそよしくなってしまっていないだろうか?
これらの考えは、近代になって身体を機械の部品のようにみなして、
科学を進歩させてきた社会的傾向でもあると思う。
悪くなったから交換しましょうとか、痛いから薬で黙らせましょうとか
曲がっているから、まっすぐにしましょうとか、
なくても良いものは、必要がないので切って捨てましょうとか、
発想そのものが、自分の所有物であり、身体が機械の部品そのものになってしまった。
昭和の頃は、親からいただいた身体に傷をつける事に、皆漠然と抵抗感をいだいていた。
生まれたままの状態で、死ぬことに美徳を感じていた。
しかし今は、そんなことを言ったら、笑われるだろう。
冷静に考えれば身体を道具や機械にみたてるなんて、ちょっと失礼な話ですが、
たとえ身体を、生きていくための道具であると仮定したとしても、
道具に対する考え方自体が、変わってしまったようです。
日本人にとっての道具とは、どんな存在なのでしょう?
「刀は武士の魂である」という言葉を聞いたことがあると思います。
もちろん諸説は、いろいろありますが、日本人の道具に対する考え方の
象徴であるような気がします。
関ヶ原の戦いの頃、日本はすでに世界有数の鉄砲の保有国でした。
しかし、江戸時代に入り、日本はあっさりこの地位を捨てさります。
平和にすることで、徳川幕府の安泰を計ったと思うかもしれません。
しかし、幕府だけが鉄砲を独占しようともしていません。
これは、ひょっとしたら、日本人の道具対する感覚から鉄砲が逸脱していたから
ではないでしょうか?日本人の感覚が鉄砲を道具として認めなかった。
つまり鉄砲には、魂を吹き込むことがどうやら出来なかった。
日本人にとっての道具とは、自らを磨くものであり、鍛えてくれるものでもあった。
道具を身体の一部として扱えるほどに一体感を持つことで技を磨いた。
身体の一部と化した道具に、自然と魂も宿るという発想に違和感は生じない。
武士が、刀のおかげで、修練することができ、成長することも出来た。
そして、持てば身体の一部になる刀は、武士の魂であるのは当たり前事だ。
これが、元来日本人の持っていた道具に対する考え方の様な気がする。
道具とは、身体の一部になり得るものであり、魂を吹き込めるものであった。
この考え方なら、身体を生きるための道具だとたとえ言ったとしても、
それは、そんなに悪い表現でもないような気がする。
つまり、魂を吹き込むわけですからね。本来のあるべき姿になるわけです。
この道具にたいする考え方は、あらゆる場面で自分に問い直すことのできる
よい指針になることだとおもいます。
自分の魂だといえるほど、その事に取り組んでいるのか?とね。
そして、道具だからと自分の都合で、使い捨てていないのかとかね。