それなりの覚悟が必要な日本文化

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日本文化に触れようとする行為は、それ相当な覚悟が必要なようです。

これは、伝うプロジェクトとしては、痛い話でして、もっと気軽に日本文化に接して伝えたりすることが出来たら良いのになと思って始めているわけですが、、実際のところは、そう簡単な話ではないようです。
もちろん、観光局や文科省が考えているような文化は、だれでも簡単に飲んで食べて観て楽しむ事ができるでしょう。それらは外国人のかたでも簡単でしょうけど、つまりそれらは商業という裏付けがあるわけで、ほんとうに文化的かといえば、疑問が残る点もあるわけです。

ではなぜ、そんなに覚悟が必要なほど、難しい話になってしまうのでしょう?

そもそも、文化とは、なんら努力することなく得られる才能のことですよね。

そんな才能ってあるのかな?かすかな火だねは、まだあると信じてます。
明治維新の時に、とにかく徳川が好んでいたものをすべて絶滅させようとした薩長の人たち、そしてそれに荷担した、アメリカ。誰よりも日本を知り研究をしていた彼らは、その後も日本政府と協力してGHQやCIAによって、綿密に計画され日本から文化を奪おうとしてきました。

その結果、日本の近代化や国際化の邪魔をしているのは日本の暗く陰湿な文化のせいだとして、日本のことを嫌う日本人は数多くいると思います。

僕も、若い頃は間違いなくそう思っていたわけで、特にイデオロギーとして、日本の古典の破壊を正義だと思っていた節があるわけです。社会や産業、映画、演劇、芸術までもがそんな方向だったと思われます。

岡本太郎さんの言葉を借りれば、
私が若くしてフランスに渡ったのも、過去の芸術形式への不信と、絶望からだったのです。とくに日本の、いわゆる伝統文化は弱々しく、暗い。あの気配が私に はいとわしかった。もしそれが自分の血肉の中にある運命だとすれば、それをこそ若い日本人がまず、第一に切りすて、否定しなければならないものだ。そうい う自己嫌悪的な反発を感じていたのです。

このような西洋が正しく、日本は間違っているという漠然とした価値観が150年ちかく続いているわけです。そして、現在そのようなことは、意識しなくても普通にそうした価値観が浸透してきました。ここまでくればもう、日本文化を海外から評価されても、そうでしょうって一緒に喜べるようになりました。つまり、日本を完全に客観的に見ることができるようになってしまったようです。

この状態は、喜ぶべき事なのか、悲しむべき事なのかは難しい問題ですが、外国の方に日本文化について聞かれた時に、通り一遍の知識しか持ち合わせていないことにはじめて気づいたりするものです。いやそれどころか、文化はそういう知識があれば共有できていると思っているのかもしれませんね。

そういった具合ですから、文化を客観視している私たちが、いざ文化に触れようとすれば、たちまち150年という空白を埋める必要性に迫られる可能性があるわけです。

150年です。知るわけがありません。私たちは、もうちょんまげでもないし、着物もたまにしか着ないし、畳に座ることもなくなってきたし、肉を平気で食べるし、草履や下駄も履かないし、字も読めないし書けないし、等々。こうした事への実感がなにもなくなってしまったわけです。

元来日本人は、海外から入ってくる文化や文明をすごい咀嚼力を持って消化吸収し、いつのまにか日本文化に沿ったものに変化をさせてきました。ところが、この150年間消化力のある日本文化を否定してしまっていたのです。当然、海外の文化は脆弱なフィルターを通してどんどん進入し浸透してきました。ある程度は日本的に訂正を加えたでしょうが、そこから新たな文化を創るところまでは至ってないように感じます。

つまり私たちが、不用意に文化と言ってしまっているものは、二つあり、維新後150年の上に基盤を置くものと、それ以前の日本に基盤をおくものがあるわけです。自分たちが、どちらに足をつけて立つのか選択を強いられているわけです。

伝ふプロジェクトでは、もちろん江戸時代側に足場を求めてみようかという試みですから、それなりの覚悟が必要になるのかなという訳です。

個を消しなさいと先人たちが口を揃えて言うのは、なにも全体主義や自己犠牲の精神を唱えているのではなく、個につきまとう観点をいったん捨てないと、先入観だけで何も見えなくなりますよということを言っているのだと思います。

しかし、これが難しい。まず誰でも自分の考えが正しいと思っています。その考えに基づいて生きているわけですから、当たり前です。ですから、そこを否定されますと、人生を否定されたり自己の存在を否定されたような気になり、とても怒りを覚えたり、拒否反応をしめしたりするものなのです。

特にそれが僕のような無名で実力もないものが言おうものなら、二度と来てくれなくなるという仕組みなわけです。笑

僕は現状を嘆いているのではなく、すばらしいチャンスがあるのだと思うのです。私たちには、いまだかつてないほどの可能性を現在持っているわけですす。まったく違う、文化を共有することができる可能性があるのだということです。どうでしょうか?

もちろんそれは、最悪の事態と紙一重なんだ、ということは肝に銘じておかないといけないのでしょうけどね。

 

 


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