演技ラボ お稽古日誌

2016-06-08

keiko

第7回お稽古はじめるよ~ でした。

 現代の俳優は、せりふにきっと内面の根拠を探すだろう。それだからつまらななくなる。「・・・・・」をたちまち心理描写でうめるだろ う。それでは味も素っ気もなくなる。いくら探してもそんなものはここにはない。だからたちまちしゃべれなくなる。無理してしゃべればリアリティを失う。そ こに今の役者が久保田戯曲を上演できない理由がある。
「舞台を観る眼」渡辺保

私たちは、普通に演技と言えば、与えられた台詞を解釈して、
それをどう表現するのか考えて、それを実行する。
そして、その中に何かしらのリアリティを求めて拠り所にする。
そんな感じが一般的な演技の仕方だと思いますが、
これらは全て、個人の感性に由来するわけです。
個の感性を共有することは難しいのでなるべく個を捨ててやってみたい。
そこで、間を自分で取らない、台本を解釈しない、相手を普通にみない。
まず、この三点に注意してみた。

・間を自分で取らない
どうすれば良いのか?誰かがきっかけを出すのか?
もちろん他人が出しても良いのですが、それでは煩雑になりますので、
自分でやってもらう。要は、意志を排除して間を取ってみるわけです。
この場合の意志の排除の仕方は、色々工夫しないといけないわけです。
それが、長かろうと短かろうと気にしないでやってみる。

・台本を解釈しない
これは、簡単そうで難しいのです、ここでつまずくのが、演技経験者です。
そりゃ、ずっとそうやって稽古してきてますからね。芝居した気になれるし。
例えば、好きですと言えば、感情を入れたくなるのが人情ですが、
ここをずしっと押さえて、そういう余分な感情は出ないようにしてみます。
それじゃ、台本の意味が伝わらないのでは?とかは考えないでやてみる。

・相手を普通に見ない
これは、出来ていると勘違いしがちな所ですね。
つまり役になりきるとか、そういう意味ではないようです。
ただ、ただたんに一人の個体としてみる。
だから、この人は好きな相手だとか、そういう関係性も無視するわけです。
それじゃ、人間関係が表現できないのでは?とも考えないでやってみる。

(細かいやり方に関しては、稽古場で説明しています。)

~演じる側の感想
自分の事が良いのか悪いのか分からない。
周囲の雑音は気にならないかもしれない

*間
間を自分で取ると、相手の台詞の間に集中が切れる
間を自分で取らないと相手と交流しているような感じを受ける時がある
朗読していて、苦にならない(厭きない)

*相手
個体としてみると、観ることが楽になる
接近しても、気にならない

~観る側の感想
はっきりしないが、何かが伝わってくるし、流れのような物を感じる
物語が動き出しているのが感じられる。もっと先が見たくなる
演者の意図を感じると集中が切れる感じがする
個体で人を見ると二人が近寄っても違和感を感じない
間を自然にゆだねるとまるで上手な俳優に見える

全体的には、まだ安定感がなく良いときとと悪い時が交互にある、
しかし、良いときの引き込まれる感じは、見応えがあり楽しい。
視覚的には、相手を個として見る方法がとても見やすく物語が読み取れる
聴覚的には、間を自然に任せるのは効果がすごくあると思う。

間を自分で取らない、相手の関係性で見ない、台本の解釈しないの3点は
かなり有効的な手段であることが、わかった。
あとは、このとりあえず3つをどう芝居の中で維持するのかが課題である。

課題もいろいろあがりましたが、楽しそうな方向に向かいそうな気配を感じました。

~雑感
演技でよく言われるのが、リアリティという言葉なのだが
みんなリアリティのある芝居をしたいと思ってるわけです。
しかし、そのリアリティって奴が
芝居をしているという実感を得るための拠り所だとしたら、これはまずいのだろう。
つまりそれは、武道で言うところの居つきに当たるからだ
それでは、ちゃんと動けるわけがないというのが武道の理屈なわけだ。
だから芝居をしているという実感は、少なくとも必要ないのかもしれない。
それは単に、演者の自己満足に近いものである可能性があるからだ。
今回の稽古で、演者はどう自分が見えているのか、見当もつかないと漏らした。
しかし、見ている側は、それで充分見応えがあったのも事実なのだから。

 

お稽古はじめるよ

 

 

 


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