世界が驚くニッポン 感想

2017-03-30

ここまで、経産省が作成したコンセプトブック「世界が驚くニッポン」を掲載しました。
率直な感想をいうと、学びとることがあるかと思って読みましたが、驚きました。
学びとる以前に、理解不能でした。笑
半年かけてかなりの予算をかけて作られたようですが、
日本語はこれで大丈夫ですか?あってますか?
僕は、意味の分からないところが多々ありました。
誰を対象に作られたのか不明ですが、偏差値が高くないと理解できないのなか。
むしろ、読まなくても日本の事を知っている人にしか、理解出来ないのかもしれない。
まして、外国人がこれで、理解出来るのなら、その人に会って話を聞いてみたいです。
キーワードだけ、先にピックアップして、後で、無理やり話をつなげた様な気がします。
また自分の感じている日本とかなりギャップがあり、正直落ち込みました。

知識というものは、その時の権力の象徴でもあります。
力の無い者が何を言おうと信じてもらえないのが、知識の本質です。
経産省がこう断言して作られた資料というのは、とても重い意味があると思います。
以後、これが常識として、いままでの知識が塗り替えられる事もあるでしょう。

例えば、「間」について

自然の中から「間」という感覚を見出した日本人とあります。
自然の中から見出した感覚とは、どんなものなのでしょうか?
本文の中では、対立概念や矛盾を受け入れ、ニュートラルな立場にいて、
あるがままの状態の中に意味を見出そうとした。それが、「間」の感覚である
と説いています。
これは、間というよりは、文字通り「あいだ」ってこと?
もちろん、その後に、時間や空間、固定化した物質ではなく
動的で、直感的に捉えられない感覚と、付け足してはいますが、、

僕は、これを読んでいて、根本的に違うところがあるな、と思います。
それは、説明が難しいのだけど、
つまり「間」を、概念だけで、捉えようとしていませんか?ということです。
「間」という概念は、あるが、実体はない。という立ち位置にいる。
何かと何かの「あいだ」という、概念的思考法をするならば、
AとBがあれば、「間」が存在するが、AもBも無ければ、「間」も存在しない。
という捉え方をしているような気がするのです。
逆に僕は、「間」は確かに独立して、そこに存在するものとして捉えます。
つまりAもBも、無くなってとしても「間」は残るということです。
実在するが、ただ目に見えないだけのモノである。
AもBも「間」も、同等に等しくそこに存在するものとして感覚するということです。
そうしないと、「間」の文化を理解することが難しいと思うのですが、、、。

こうした、一見理解しづらい「間」という言語に対して、
概念だけを先行させて、机上で理論を組み立ててしまうことが
文化を語るときに、どうしても精神論にあたってしまって、
その先に、進まなくなる原因の一つなのだと思うのですが、
言葉に実体(経験)がなければ、空想しかできないのです。

まとめ

いろいろと考えの違いがあるところですが、結局のところ
先程も言いましたように、知識は時の権力のあるものが正しいという
宿命を持っていますので、お偉い人が決めたとことが正論です。
つまり僕の意見は、マイノリティとして、信憑性を失うわけです。

日本政府の指針として、「間」とは、調和のためのあいだをとること
「道」は和に向かうための体系化されたプロセスである。
そして、調和の取れた状態=「和」を目指すことが、真理に通じるというわけです。

じゃあ、ニッチになってしまった我々は、どうすれば良いのかといいますと。
つまり、まさにこのことが、伝ふプロジェクトのコンセプトにもなるわけですが、
知識とは、時と共に変わりゆくものであり、時の権力の影響をうけるものです。
ですから、継承することが難しいし、継承する必要性がないものなのです。
知識として文化は、ほっといても、適当にアーカイブされるわけです。
大切なのは、知識ではないということです。
伝ふプロジェクトでは、こうした理由から、経験としての文化を大切に考え。
経験する身体を通して、継承する文化を研究し、
実践していきたいと思っているわけです。いかがでしょうか?

よろしくお願いいたします。

 

 

 


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