トリカゴに関する韓国の記事

「トリカゴ」韓国の媒体ohmynews掲載の翻訳です。かなり細かく分析、評価して頂き恐縮です。多謝

日本社会派ミステリー最高の作家のうち1人である森村誠一は彼の作品「野性の証明」で”民主主義”に対して叙述した。民主主義のためには多くの人々が抵抗して血を流す苦痛が伴う。そのような血と汗で成就した民主主義はその光を出す前にあまりにも簡単に再び独裁に移ることになる。なぜなら民主主義は独裁の種を切って弾圧する力が無いためだ。それなら果たして民主主義というものに数多くの人々が犠牲にするほどの価値があるということなのか?

それに対して作家は質問を投げる。「トリカゴ」はこういう「野性の証明」の問いをもう少し拡張させる。時代を超越した独裁と強圧の歴史の中で人間はどのように抵抗してきたのか、そしてその抵抗は果たしてより良い未来を作ってきたかに対して話だ。主に香港で活動した中田圭監督は、太平洋戦争当時日本の軍国主義が作り出した集団主義の幻想と熱望を電位的なスタイルで表わした。映画は近未来の日本を背景にする。導入部のインタビューで人々は彼らが考える社会的な価値をいう。それらの目に映る価値が”自由”‘と”平和”だ。この二種類の価値は妙に外れるのか共通点がある。 完全な自由は真の平和を持ってくることができなくて、完全な平和は保障された自由を約束できない。

 この映画はこのような命題を成立させるために精神病者と指定されればすぐに精神病院に入院させることができる措置入院(※日本国憲法精神保健福祉法29条)を設定する。 道を過ぎ去った男はある老人と対話をしている間に、周辺の人々によって精神病者と決めつけられることになる。原因も理由も無しに彼を精神病者だと追い込む人々によって、男は精神病院に引きずられて行くことになる。 だが、その治療方法はあまりにも非正常的だ。看護師は暴力を振り回して男の目にかぶせられた電子機器は、奇異な場面を見せるということと同時にぞっとする電気拷問を加えることになる。夜になれば男は部屋に現れるおかしな人々と会うことになる。彼らは男とともに部屋を共有していると言い、彼に脱出方法を教えるがこれは施行しにくい方法だけだ。

 映画はおかしな精神病院、奇異で暴力的な治療を繰り返す医師と看護師、夢と現実、妄想と幻想を行き来する演出を通じて、なめらかな流れよりは瞬間、瞬間に強い印象を残す電位的な演出法を選ぶ。 こういう多彩な場面の中で監督は、主題意識を強調するためのいくつかの核心場面を設定する。最初にはトリカゴだ。導入部で男は1人の女性に会って彼女に名前を尋ねる。だが、彼女が名前を言う前に場面は変わる。精神病院に引きずられて行った男は再び女に会うことになるのに、彼女はトリカゴに閉じ込められている。 トリカゴに閉じ込められた彼女は二種類の台詞を通じて、トリカゴが持った意味を見せる。

 カナリアは泣く方法を忘れたという台詞と、私も私が誰なのか分からないというセリフは、トリカゴという社会に閉じ込められた現代人の精神的な忘却を見せる。作品の後半の海辺場面で登場する男は、トリカゴの鳥が脱出するにはどのようにしなければならないのか?と尋ねる。この質問に対する答えは、新しい鳥を捕らえて入れれば良いということだ。

 トリカゴは拘束と抑圧を象徴する。世界の歴史は独裁に抵抗する自由に向かった闘争の連続だった。一度勝ち取った自由はずっと維持されたことがなかった。鳥がトリカゴを脱出すれば新しい鳥が閉じ込められるようにした世代が、自由を勝ち取れば違う世代はその自由を維持できないまま強圧と抑圧の沼に落ちる歴史が繰り返されたし、また繰り返されている。カナリアの泣く方法はトリカゴの外で叫ぶ自由の歌だ。トリカゴに閉じ込められた鳥は自由を叫ぶことはできない。 自由を無くした鳥は自身が誰なのかに対するアイデンティティを忘却し、政権次元の強圧的な教育と思想に自らを無くす。

 作品導入部の第二次大戦当時のナチ政権と、太平洋戦争当時日本軍国主義の姿、ナチ政権当時”ハイルヒットラー!”という敬礼を叫んだドイツのように、バンザイを叫んで日本軍国主義をパロディにする場面、自分たちの自由とアイデンティティを叫ぶ人々が銃声と共に虐殺される場面は、このような考えを後押しする。

 二番目は転生だ。夜ごと精神病院に閉じ込められた男の前に現れる人々は転生の意味を強調する。この転生は三人の人物を通じて実現される。最初には過去の制服を着た顔が白い男、二番目は精神病院に閉じ込められた男、三回目は親方という精神病院脱出の鍵を持った幼い少年だ。これらは隠喩的に三代にかけた転生を意味するように描写される。制服を着た男は軍国主義時代を、精神病院に閉じ込められた男は相変らずいじめと強圧的な職場文化で代表される集団主義の残骸が残っている現在の日本を、少年はトリカゴを開いて自由に進むのを希望する未来を象徴する。

 だが、この自由に向かった熱望が果たしてなされるのかに対して監督は否定的な立場を見せる。制服を着た男がドアを開けて過去から現在に出てきた瞬間、彼が見た世界はゴミの山と煙を吹き出す工場でいっぱいだ。文明の利器と資本主義の属性は身分制と軍国主義が無くなった日本を、相変らず強圧的な世の中に閉じ込めていて、このトリカゴから脱出するにしても、また他の鳥をトリカゴに閉じ込める準備をしていることを間接的に表現する。

 「トリカゴ」はこのような冷笑的な見解を重く冷たいドラマでは表わさない。時にはコミカルで時には残酷で時には夢幻的で奇異な電位的なスタイルを通じて、複雑だが多彩な感じを定義する。これは観客にとって一つ意味や場面に集中するよりは、多様に作品を受け入れることで自由な解釈を成し遂げることができる想像力の力を発揮できる時間を付与する。この作品は映画それ自体の持つ力よりは、これを感じる観客の感想によりもっと大きい力を発揮できると言える。
文:キム・ジュンモ(オーマイニュース)

中田圭監督さんのfacebookより 映画「トリカゴ」BIRD CAGE

 


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