お稽古はじめるよ Vol 6

2016-02-08

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拡散的集中による自己の分離をするための感覚の使い方とは、
つまりは経験の共有をうながすための同調原理を導くための感覚のことです。

※視覚について※
普段の私たちは感覚を認識すること使ってしまいます。
IQテストのように、物事の差異をすばやく探して確認する。
この認識過程は他者との異化を確認する作業になります。
このように感覚を識別に使うと異化が先に行われ同調が難しくなります。
ですから、十分な注意が必要になるわけです。
なぜ私たちは普段は識別感覚を使ってしまうかと言いますと
それは物事を理解しようとする意思が働いているからです。
精神活動は、だいたい 認識→判断→行動 といった具合ですから
まず、認識し理解しようと自然にしてしまうわけです。

そして、この理解ということが大変やっかいな現象な訳です。
分かるとは、分けることだという言葉がありますが、分けるとはつまり、
異化することでもありますが、さらに進むと成分の抽出が行われます。
そして、さらに分けたものを抽象化し固定化するわけです。

たとえば、花を見たとします。
次に花の種類などのレッテルを貼ります。
以後、そのレッテルを認識して、実際の花に目を向けなくなります。

hanaこの場合、例えばこの花が枯れたとしても認識に変化起きないかもしれません。
実際の花から名称という要素が抽出されたからです。
一方、ある花をみて好きな人を思い浮かべたとします。
それは、どうして思い浮かべたのかは理由はわかりませんが、連想されました。

hana2この場合は、認識よりも先に感性が動いたのかもしれません。
そして、この感性は時と共に変化が生じていくでしょう。
この花が、枯れたときには同じような気持ちにはならないかもしれないのです。
これは、花の何かと同調関係が結ばれたわけです。

つまりこうした感性が働くような感覚の使い方をしたいわけですが、
それはいったい、どのような目で視覚を使うのでしょうか?
芸術家は一般人とは違った見方でものを見ると言われますが
それは、どのような見方なのでしょうか?
僕は芸術家ではないのでよくわかりませんが、
私たちでもわかりやすいことは、とりあえず視線を消すことではないでしょうか?
私たちは、普段の生活の中で視線を感じたりすることはないでしょうか?
あるとしたら、なにか突き刺してくるようなあまり気分の良いものではありません。
それは、明らかにあなたのことを誰かが異化するために見て(あらさがし)いるからです。

目線
さて、どうやってこの視線を消すかですね。そもそも視線なんてあるのか?
その問いは、本文からずれますから問題にしませんが
実際、大変難しい問題だと思います。
ヒントとして一つの方法を提案してみます。
日本の表現方法の特徴として主格の喪失をVol 5で取り上げました。
そして、主格がある表現にはある種のベクトルが生じるという話でした。
このベクトルが視線だとすれば、視覚においても主格をはずせば
視線もなくなるかもしれません。
では、どうやって?
ここで、日本のネガティブ好き、引くことが佳いという文化がヒントをくれます。
見た物をポジではなくネガとして捉えてみるわけです。

これじゃあ、なんだかわからないじゃないか?って
それで良いわけです、まずは分かろうとする意識が消えるわけです。
わかってしまうと、たぶん自分の評価がすばやく入ります。
綺麗だとか、あまりいい絵ではないなとか。
こうした個の意見は、共感されない限り、共有が難しい訳です。
ですから、無い物にすり寄ることにより無条件に共有をさそい
同調感覚を作動させて物質の本質にせまるわけです。
こうした手法は、日本文化の中では、普通に用いられていると思います。
華道とか、絵とか、描かれてない空間を間とし大事にしていると思います。

私たちは、輪郭や色に惑わされることなくそのものの存在をまず感じてみるわけです。
どうでしょうか?

つづく

お稽古はじめるよ~

 

 


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