お稽古はじめるよ Vol 4

2015-12-02

nao1

集中観の違いについてですね
集中にはいろいろな方法があるわけですが、案外明確に使い分けてないようです。
私たちは集中という言葉につられて、集約的集中が一般的だと考えられているようです。

例えば、海外のサッカーとか見ていますと、ゴールを決めた瞬間、
激しいガッツポーズをしたりして、こうした状態を集中しているというわけです。
「心・技・体」が三位一体となった、
いわゆる統合体となった状態を集約的集中として、通常の集中と捉えています。

一方、最近では忘れられていると思われます拡散的集中とは、
注意がどんどん広がっていく集中観ですね。

閑かさや 岩にしみいる 蝉の声 (芭蕉)

この句はとても有名ですが、わかりやすく拡散的集中観を表してるなと思います。
つまり、岩にしみいるような拡散的集中がおきたとき
音としてうるさかったはずの蝉の声は、閑かになっていくわけです。
このように何かに集まってくるのではなく、あらゆる隙間に入っていくような集中が、
おきることが拡散的集中観といいます。
元来日本人の集中観はこちらだったと思われます。

この違いは、よく表情に表れてくると思います
集約的集中の場合、眼力が強く、エネルギーを感じる顔になります。
一方、拡散的集中に入った顔は、優しい顔になり死顔に近くなります。

これを緊張とリラックスというわざわざ二項対立して考えがちですが、
まったく集中観の違いからきているのなら、次元の違う話になります。

集中と夢中の違いでも分かりやすいですね。
最近では、よく見かけるのでわかりやすいと思いますが、
電車やホームでゲームをしている人、この人達は夢中になっているのは
分かりますが、邪魔ですし危ないですよね。
ということは、この夢中になっているこの状態は、武術では不向きなのは
明々白々ですね。どこからでも斬られてしまいます。

昔の時代劇で見られるシーンで、よくできる武士が、仲間と話しに夢中になっていても
ふとした瞬間に、殺気を感じてとっさに動いて危険を回避したりします。
つまり、夢中になっていても拡散的集中観を維持しているわけです。

集約的集中では、五感が強くもつことにより自我が強くなります。
それに伴い外部で起きていることに共感ができなくなります。
拡散的集中では、五感の働かせ方に技をつかい自我を消していきます。
それに伴い外部で起きていることに対して共感性が高くなります。

では、どのようにして拡散的集中を作るのか?ということですね。
昔の人の知恵で、まずは自分を割ること、つまり分離することだったのです。

人の分離

これが、渡辺保さんのいうところの「演技」と「芸」の違いに通じるのだと思います。
つまり「心」・「技」・「体」の一致や統合をはかるのではなく
分離、共存をはかる方法が、拡散的集中観なのだと思います。

では、どうしてこうした方法が有効なのか
その前に日本的な表現法から、説明した方がわかりやすいと思います。

 

つづき

 

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