柔よく剛を制する

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柔よく剛を制するとは、そもそも、どんな意味で使われているのかというと
一般的には、
『三略』という中国の兵法書の「上略」にある「柔よく剛を制し、弱よく強を制す」
というところから
柔らかくしなやかな者こそが、かえって剛強な者に勝つことができるという意。
転じて、柔弱なものが、かえって強剛なものに勝つ。
柔道とかで、身体が小さくても、大きい人を投げ飛ばすことができるイメージ?
ただ、柔らかいものを弱いものと関連づけてしまうのは
ちょっと西洋的な発想の様な気がします。

もともとこれは中国のことわざですけど、日本でもよく使われるのは、
やはり、この言葉に共感を覚えるからでしょう。

では、いったいこの柔ってどんなものなんでしょうね?

この柔は、とってもつかみどころがないものですが
たぶんこれが分かれば、日本の文化の秘密もわかり始めるのだと思います。
日本の生活様式や、数寄の発想も同じ様なことろから来ていると思います。

逆に言えば、少なくとも日本人にとって剛は、いけないし、好きではない。
柔軟性にかけるし持続性にも問題がある
そもそも、剛ばかりでは、むさ苦しくて一緒にいたくないし、疲れてしまう。
しかし、この剛から柔を考えた方が、分かり易いのかもしれない。
例えば、剛にたいして、剛で闘うというのなら、
アメリカの野球の大リーグのような力と力の勝負を楽しむのは
まさに、剛に対して剛で迎え撃つ良い例でしょう。
剛に対して剛であたれば戦争のように衝突が起きます。
そこで、生まれるのはたぶん破壊です。それを楽しむ娯楽です。
野球が日本に伝わったのが明治4年です。
たぶん、江戸時代に伝わっていたら、廃れていたことでしょう。
対して、柔で対応するとは、衝突を避けるわけですね。
たとえば剛速球を投げてくるピッチャーに対して、ずっとファールを打つとかね。
これをやられたら、剛はたまらない。持続力のない剛はせいぜい100球も
投げたら休まないといけない。だいたいそれじゃあ面白くない。
だから相手にそんなやり方は卑怯だとののしるわけですね。
つまり、スポーツというのは闘いなのになぜか精神論に支えられていたわけです。

日本にも、将棋というものがあります。これは力と力の勝負でしょうか?
しかし、これはどう考えても、明らかに作戦の勝負ですね。
なぜかというと、個別に駒を鍛えることはできません、つまり互角なのです。
まったく互角の戦力では力と力の勝負に向いてないのかもしれません。
また将棋では、思想としても、衝突を避けている事が分かります。
例えば、相手の駒を取りますが殺していない。
活かしたまま今度は、自分の見方にしてしまうわけです。
このルールは、実は他の国には見られない現象です。
しかも王も実は殺していないのですね。詰めているわけです。
王様の逃げ場をなくして、そこで勝負は終わりです。

ちょっと例えの出し方が悪くて、論点がずれそうですね。反省。
僕が勝手に推測するに、柔が剛を制するのは、
剛の持つ力を、相手にしないというか関係しないことではないでしょうか?
それは、剛の持つベクトルをかわすとか、違うベクトルで対処するというのではなく。
根本的なところで、次元を違えてしまう。
剛の力が及ばない、まったく違う次元で動く事が柔の本質ではないでしょうか?
つまり、最初っから闘いとかにならないわけです。
時間軸の考えかたも違うかもしれない。
剛の勝負が、速さにこだわるのは、むしろそこが弱点であることの証でもあります。
つまり、剛が二次元的であるのに対して、三次元や四次元的に構えるわけです。

これは、もしほんとうなら、やっかいな敵ですよね。
力で勝負しようにも、見えている相手の次元違えば、
影を相手に闘っているようなものですから、らちがあかないですよね。
そんなところに、日本人の考えていた柔の秘密があるような気がします。

柔を佳とする文化とは、 単純化する世界を美徳とする現代において
より複雑に世界を捉えようとするこころみでもあるのかもしれない。

 

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