引く文化

kosumo

日本には引く文化があります。
鋸も日本だけが引いて切ります。包丁も鉋も引いて使います。
扉にも引き戸があります。
これらの物は、日本人が発明した物ではなく海外から伝わってきた物です。
それなのに、日本に入ったとたんに引くものに変えられてしまうわけですね。

これは、理論的かつ科学的根拠に基づいてそう変えたのではなさそうです。
どちらかといえば、日本人にはあらかじめ決められたある動きの規範があって、
その動きに合うように道具を使いやすいように作り直した経緯があるようです。

しかし、どうして引くのか?大問題ですね。

元来、私たちの思考は、自然世界を元に考えていたと思います。

川の流れ、木々の成長、海の満ち引き、月の満ち欠け、太陽の暖かさ、風の流れ
等々、そして日本人は自分の身の回りに起きることを
これら自然の営みと関連づけてきたのだと思います。

諸行無常もしかり、かたちあるものはやがて消えてしまう。
要するに消えていく物、足されていくのは不自然であり
現状から引かれていく(消える)ことのが自然であると考えたのではないでしょうか?

そして、なによりも行為としての引くとは、迎え入れる(引き込む)こと
相手や、自然を、自分と関わり合うすべての物を迎え入れてしまうこと。
自分が自然と同化し、他人と同化し、力に変えていくということ。

もともと、日本人はプライバシーの概念が希薄でした。
個人というか、自我の意識が薄かったのです。
ですから、自分という枠の境界線があいまいで、対象を差別化するより
取り込んでしまったほうが話しが早かったのでしょう。

そうして、全てを迎え入れた自分の領域を、
混沌としたカオスの状態にするのではなく
究極までそぎ落として、なにもない空間をつくる
そのなにもない空間こそが、神聖な場所であり
また自然の脅威から自らを守ってくれる唯一の場所であると
信じていたのではないでしょうか?

こうして、引くということを考えていくと日本文化が目指しているところ
なにを佳いとしてきたのかが少しだけ理解できるような気がします。

武士の間合いで現代を生きる

 

 

 

 

 


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