才能が無いという才能

2016-12-07

hana6

自分はつくづく才能がないと思う。
それなのに俳優などという才能がなければ到底無理なことをしてしまったわけだ。
かなり自虐的な選択をした人生だと思う。
それは、もう取り返しがつかないことだから、まあよいとして、
ところで、才能って何なのか?と素朴に考えてみる。
そんな、どうでも良いことを考える時間があることは、
まさに才能がないから出来ることである。

それで考えててハットしたのだが、
みんなが気軽に才能があるとか無いとか口にするのは、、、、
まさかと思うが、
お金になるか、ならないか?
つまり経済価値が、あるかないかって判断で、言ってるのでは??

そんなことはないよと否定するだろうけど、
もし経済価値をまったく考えないとしたら、どうやって
才能があるとか無いって、言い切れるのか判らなくならないだろうか?

例えば、自分の考えたように身体を操れて完成された動きが出来る人がいる。
それは、才能の塊だと賞賛されるだろう。
しかし、そのことが1円の価値も生み出さない世の中だとしたら
本当に才能があるって、言ってもらえるのだろうか?

例えば、子供が絵を描いた、
それを見て親が、自分の子は才能があるって思う。
しかし、子供の才能を経済価値という天秤にかけて言ってるとしたら!
少し怖い感じがする。
そんな、教育で自分の子供はちゃんと育つのかな?
はなはだ疑問である。

経済活動というシステムの中で生まれ、
そのシステムの中で生きて行くことしか出来ないのかもしれない。
しかし、自分の才能を経済価値という天秤から下ろして考えたとき
無限の可能性が広がるような気がするのだけど、僕だけかな?
才能の壁にすぐにぶち当たるのは、
経済活動と才能は本来相反するものなのに
同じレールの上に乗せて考えようとするからだと思う。

もちろん、僕たちはお金がなければ生きていけない世の中の中にいる
また一方で、小金を稼いでいても豊かになるのは難しいことも知っている。
とても生きて行くには難しい世の中になってきた。

つまり才能って、あるとかないのとかって考えると短絡的になるし、
自分の才能の限界をかんじるってことをしていると辛いだけだし、
自分の才能に気づくか気づかないかってことになるとまた違ってくるし、
そんなとき、その自分の才能を経済価値で測ったら、身も蓋もないというか、
ほんとにごく一部の人たちのため世の中になってしまう。
例えば、ゴッホは絵の才能があったのですか?
生きている時の経済価値で考えたらたぶん、全く無かったんですよね。
つまり、経済活動で判断される才能はただの風俗だってことなのかもね。
そして、経済価値から離れられない才能は芸術をすることはできない。

才能が無いって感じられるのなら、
それはきっと何か違う価値観の才能があるってことだし、
そんな役に立たないことに集中している人って
実は、世の中に無くてはならない存在だし、
経済価値の無い物が力を持ったときはじめて文化が生まれるわけだし、
つまり才能が無いのは、立派な才能であるとも言える。

経済価値と有効性に裏打ちされた才能は芸術にはむかないってこと。

 

こんなパラドックスを書いてどうしょう?
ただの言い訳に聞こえたら、悲しい。笑

 

 

 

 

 


Copyright(c) 2013 伝ふプロジェクト All Rights Reserved.