舞台を観る眼 渡辺保
白洲正子の思い出
これは「梅若実聞書」の方に出てくる話だが、梅若実は白洲正子に二つの乳を目とおもえと教えたという。舞台の上では肉眼などはなんの役にも立たない。身体中が目そのものとならなければならない。「目をつぶっていても、見えているように見えてくる」のは、身体中が目となった、その身体の「形」によってである。そこから白洲正子は次のような結論にいたる。
すべての事に盲目とならぬかぎり能の完成は覚束ない。さぐりさぐり、触覚一つできめて行く。覚えていく。
能は見るものであるが、実はその真髄は見ることができないものであるという本質がそこで語られる。
白洲正子の思想の意味のもう一つの側面は、まさにその普遍性によってあきらかになる能の特殊性であった。
その一つの例として「お能」には次のようなことが書かれている。引用すると長くなるので要約すると、能には中心というものがないというのである。能に序破急ということがある。テンポのことである。序破急は一日の番組にも、一曲のなかにも、たった一つの小さな動きのなかにもある。そうやって微分素的に分析していくと、能は無限に小さな単位に分解されてしまう。序破急は時間の概念であるが、細分化された時間はついにその中心を失ってしまうというのである。
「お能の中心」いえるものは破のなかの破のなかの破のなかの・・・・破でありますから、肉眼?で見ることはできません。とういことは目に見える型でさえ急所や中心がみつからないように、お能には時間的にも中心というものはありえないのです。
もう一つの方法論 久保田万太郎の戯曲
抽象的な言語にリアリティを持たせるということは、能や歌舞伎のようにはじめから様式的な古典劇ならばともかくも、現代劇ではきわめて難しい。文学座や新派の俳優たちはどうした。虚構を虚構として、そこにリアリティを発見すべきしゃべり方-作者独自のリズムを身に付けていたのである。というよりもせりふを生きたといった方がいいだろう。そこに言葉のリズム以外のどんなリアリティも求めなかった。ある意味で人間の内面とは全く別な次元に存在するモノとしての言葉。そういう風にせりふを扱う術を心得ていた。決してせりふを人間の内面の直接的な、あるいは日常的な表現だなどと思わなかった。そのことは喜多村はじめ新派の女形を考えればすぐに理解できる。戸板康二が、久保田万太郎の「十三夜」の、母親役の瀬戸英一の「そんな・・・・そんあことつてあるもんぢやァない」という「口跡」が耳に残っていると書いているが(同上書)、私もまたよく記憶している。瀬戸はまるで舞台の空間を切り裂くようにこのせりふをじゃべった。むろん新派の女形は、歌舞伎の女形よりはリアルだったが、それでも女優とは違う様式的なしゃべり方であり、それはまさに「口跡」とういに相応しいものであった。すなわち彼らは女形である自分の存在自体が虚構であることを十分承知していたし、観客もまた承知していた。したがってそのせりふは、その人間の心持ちとは関係がないとはいえないにしても、細かい心理描写や内面の表現だとは思わなかった。それよりも言葉がどのように空間に浮かぶかが問題だった。それでなければ、あの魚屋の親爺の長ぜりふはしゃべることが出来ない。
現代の俳優は、この魚屋の親爺のせりふにきっと内面の根拠を探すだろう。それだからつまらななくなる。「・・・・・」をたちまち心理描写でうめるだろう。それでは味も素っ気もなくなる。いくら探してもそんなものはここにはない。だからたちまちしゃべれなくなる。無理してしゃべればリアリティを失う。そこに今の役者が久保田戯曲を上演できない理由がある。
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