江戸のノイズ 櫻井進
江戸の原風景
江戸は青龍・白虎・玄武・朱雀という四つの神(四神)を東西南北に張り巡らせ、悪霊の侵入を防ぐために宗教的曼荼羅の結界を用意周到に張り巡らせた、中国の風水思想に基づいて建築された空間である。
かつて政敵の怨霊に悩まされていた桓武天皇は、中国の風水思想や陰陽道の思想に基づいて平安京を造営した。怨霊が侵入する空隙が無いように整然と構築された条里制の都市空間であった。条里制の下では、縦横の道が等間隔で直行する幾何学的な空間が形成される。
しかし、京都のメインストリートの南端に屹立する羅生門は、盗賊や浮浪者の巣窟となり崩壊し、
後に京都は、百鬼夜行や様々な怨霊が出没する魔の空間へと変貌してしまった。
徳川幕府は、桓武天皇が用いた四神相応の風水思想を逆手にとって、朝廷の象徴権力を
封じ込めようとした。朝廷に叛乱して、東国に武士の王国を作ろうとした平将門を江戸城の
鬼門にまつり、さらに関東総鎮守である神田明神の主神としても平将門をまつった。そして、
江戸から西の方角にある京都を阿弥陀浄土になぞらえた。
東海道五十三次の意味は「華厳経」である。華厳経には、五十三人の善知識に、人々を
仏道に導くための教えを請うた善財童子が、最後の普賢菩薩の十大願を聞き、
西方阿弥陀浄土への往来を立願する説話が収められている。これによれば、五十三番目の
京都は極楽に相当するのである。京都を死の国になぞらえた。
天海の思想操作の背後には、さらに次のような意図があった。
まず北極星に対する信仰である北辰信仰に基づいて日光東照宮を江戸の北に配した。
つぎに、久能山東照宮・鳳来山東照宮・大樹寺東照宮と同緯度上につながる京都を
「太陽の道」(黄道)によって結びつけ、
さらに富士山を介して江戸から日光東照宮へと
結びつけた。
このことによって、日光東照宮の力を京都にまで及ぼそうとした。
江戸は十六世紀末から十七世紀初頭に、三回にわたる大規模な工事によって完成した。
江戸城建築のための資材を運搬するために、
運河によって「の」の字に囲まれる都市構造になっている。
宗教的な呪法によって構築された江戸曼荼羅の世界が抑圧し、
都市空間の周縁へと排除下のは、
朝廷だけではなく、中世以来のバサラ的伝統や悪党の系譜につながる漂泊民でもあった。
公界から苦界へ
明暦三年(1657年)の大火をきっかけにして、江戸城に近接した町人地と日本橋にあった
吉原遊郭と芝居小屋を寛永寺よりもさらに東北の方向に移転させた。
鬼封じの最大の結界は、寛永寺東照宮であり、その外部は他界的な性格を付与された。
そして、江戸城の鬼門・裏鬼門を結ぶラインには、鈴ヶ森刑場、品川宿(遊女)と
浅草寺・吉原・小塚原刑場・千住宿という他界が位置づけられている。
浅草寺は、奥州街道の起点であり、聖なる江戸と蝦夷地という他界との境界領域であった。
浅草寺に奥山の蛇女などのグロテスクな見世物小屋が年中興業されるハレの空間が
隣接していたのもそのためであり、内と外、此岸と彼岸、生と死、始まりと終わりが接する
多様性に関わっていた。
名古屋の構造
名古屋城は軍事的要素よりも政治経済的要素や治安対策的な配慮が重視されている。
一見しただけでも、名古屋には他の城下町と異なった点がある。中心を流れる川がない。
名古屋の中心に川がないということは、都市空間の秩序やシステムを動揺させ無化する
マージナルな領域が、都市の外部に排除されたことを物語っている。
城下町名古屋の都市構造は、名古屋城-東照宮-大須観音-東別院-熱田
という北から南へのラインによって構成されている。
京都の条里制を模倣した城下町であり、大須観音を京都の羅生門と見なすならば
大須観音には熱田の霊気を遮断する意味が込められている。
伊勢信仰が、「おかげまいり」や「ええじゃないか」といった宗教的熱狂を民衆の間に
呼び覚まし、日常的な身体性を超えた男装・女装・裸身などの逸脱現象を誘発した
ことを忘れるわけにはいかない。
熱田もまた、朝廷のみならず民衆のダイナミズムと密接に関わっていた。
熱田神宮の祭礼の多くは、例祭である熱田祭に見られるように、中世に成立した。
熱田祭は、津島神社の天王祭と動揺、祇園祭系の御霊会であり、都市内部の
ケガレをシステムの外部に放出する都市型の祭礼なのである。
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