俳句・連句療法
一つの日本語観 中井久夫
明治初期 大槻文彦を発憤させた「日本語に文法無し」という知識人の見識
これより日本語に文法を作ろうとした。
森有礼 英語を以て国語とすべしと提唱(文部大臣)
志賀直哉 第二次世界大戦後という次期に、国語をフランス語にと提案
しかし時枝誠記は、日本に伝来した西欧の言語観に基づいていることに不満を感じ、
日本語独自の見方を求めていった
時枝は、英語を天秤に例えた。主語と述語とが支点の双方にあって釣り合っている。それに対して日本語は「風呂敷」である。中心にあるのは「述語」である。それを包んで「補語」がある。「主語」も「補語」の一種類である!「行く」という行為、「美しい」とうい形容が同心円の中心にある。対人関係や前後の事情によって「誰が?」「どこへ?」「何が?」「どのように?」が明確にされていない時のみ、これを明言する。
とにかく述語が中心にしっかりあればよいというのが日本語の構造であろう。(このことと、述語を重視する西田哲学との相互影響関係はどうであろうか)。「何を言うか言わないかは、主に対人関係、ひろくは状況の関数である」
自然な、よい日本語とそうでない日本語の区別は、未知を既知に織り込んでゆく順序の自然さ如何である。
連句と対話精神療法 神田橋條治
わたくしは、頭のなかであれこれ思いを巡らすのが癖のようになっている。執筆予定の原稿があるときなどは、目覚めているあいだの連想の途切れるときがない状態のとなる。この習癖は、わたくしが考えを纏めあげ論述するさいの拠り所である。連想を流しているさい、わたくしの意識は常に当面の主要テーマに執着している。そうした意識状態で思いを巡らしていると、ふと連想が跳んだような思いつきが湧くことがある。このとき、意識はあくまで主要テーマに執着しているので、跳び出してきた連想をなんとか無理にでも主要テーマに関連付けようとする。それがうまくゆくと主要テーマが少し膨らんだような感じになる。しかし、意識状態の移し替えに困難を覚える。
ところが、連句を始めて気がついたのは、句作にあたっての連想のありようと、これまでのわたくしの習癖とがまったく異質である。
連句の作業においては、目前のテーマに執着するのではなくその周辺の雰囲気のなかに意識を放っておく姿勢が必要のようであった。
連句の世界、すなわち専ら命の伸びやかさとその関わりの伸びやかさを鼓舞する祭りの世界、しばしば、殻を破る殻が破れるとう現象が生起する世界。
まず連句における座の雰囲気がある。みんなと一緒にいながらも、”みんなと一緒”という”関係”を意識せずに自分自身の思いにふけられ、それでいて、やはり傍らには誰かがいる。そして、その人も同じ心境のようである。そんななにかを共有している、漠然とした”いっしょ”という感じのなかに浸りこんでいる。
ここで思考実験として、「式目」という規定を取り去って、各人が自由気ままに連句を行った場合を想像してみよう。その結果としてできあがる一巻は、とらわれの表れ、すなわち特定のテーマの頻出と特定のテーマの回避とで、とても気色の悪いものに仕上がるであろう。
式目は一見不自由な人工的型に身を置かせることを通して自由な世界へと導くという導きの方式である。この性質・方法論は、わが国の多くの芸道の「型」に共通のものである。「型より入りて、型を脱する」と言われるように、それらの型はすべて自由へと導く方便としての不自由さであり、すでに型を越えている先達からの後進への手引きなのである。ちなみに、自ら型を越えていない凡俗が捉えた型は不自由への罠となる。
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