ものの見方 外山滋比古

ものの見方

シェイクスピアはイギリス史上最大の文学的天才といわれるが、その作品のほとんどすべてがプロットには原本があった。プロットばかりではなく、せりふなども他人の作物から借用している。当時、それは悪いことと思われていなかったから、人々はそれを歓迎こそすれ、とがめるものがなかったのは当然であった。しかし、そういう借用をしているシェイクスピアを、独創とか個性とかを大切にする今日の標準によって偉大と呼ぶには、いささか但し書きを必要とするはずである。
結局、芸術における独創、個性、自我というような概念のあらわす価値はよくわかっていないのである。独創的でありながら、つまらぬ芸術もあれば、個性的でなく、普遍的でありながら、秀れた芸術である作品も存在する。
しかし、その正体不明の独創の発生の源泉に「独りいる人間」を考えてみる必要はありそうだ。そして、「独りいる人間」の像は、「独り読む人」の出現によって社会的、歴史的実在としてとらえられるのである。

芸術は直接に感覚的な受容形式からはじまり、次第に間接的な受容に移っているのがわかる。そして、受容様式と表現様式の抽象化が並行していることも理解される。
芸術は、はじめ感覚に密着して発生するが、次第に感覚との関係を間接的にして、昇華し、想像の世界に入るようになる。

ものごとにひどく熱中していると、外界からの刺戟の入ってくることを欲しない、あるいは、入って来ることを拒む。そいういうときは、いかに大きな刺戟が外界から与えられても刺戟と感じないことがある。

セレンディピティー

妙案が閃くのも、何かいい考えはないかと頭をひねっているときではない。ほかの仕事で身体を使っていたり、休息していたり、という思いがけないときに、ひょいといい着想が頭をもたげる。

散歩が着想を得るのにきわめて適しているとする人はたいへん多い。モーツァルトは「馬車に乗っているとき、たっぷり食事をした後の散歩、眠られぬ夜などには、いくらでも考えが湧いてくる」と誇った。

この偶然のことをセレンディピティーというのである。

事をなすには精神の集中は欠かすことができない。それはその通りだが、しかし、心を固くすると、自然なときには見えているものまで見えなくなってしまっていることもありうる。

セレンディピティーは、しばられた関心や注意が発見に適していないのに、自由に動くことのできる精神は、成心をもって臨んでいるときには形にならなかったものまでも、形として見ることができるようになることを教えている。つまり、緊張部分をもちながら力を抜いたところもある精神によって創造は行われるもののようである。完全にはりつめた意識よりも、むしろ、半ば放心の状態にあって何気なく見たときに見えるものが秘められた事物の姿というわけなのであろうか。

 

 

 

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