ひとの目、驚異の進化
透視する力
テレビゲームでは一つの画像、つまりたった一つの目で見ているかのような世界が表示される。つまり一つ目の怪物としてプレイしていることになる。
たいていの人は、両眼視と言えば奥行き知覚(立体視)が頭に浮かぶので、一つ目で見た景色の中の距離を知覚するのは難しいのだろうかと思うかもしれない。だがその答えはノー、あまり難しくはないのだ。こうした画像は真に迫っているので、視界中のさまざまなものどうしの距離について、豊富な手がかりがを含んでいる。一瞬一瞬の画面の中でさえそうだ。実際にゲームをしていて動き回るときは、運動視差という強力な奥行きの手がかりのおかげで、ますます距離感がうかみやすくなる。視野の中で、近くのものは遠くのものよりも大きく移動するのだ。
事実、実生活において立体視の重要性を証明するのは、驚くほど難しい。両眼視できなくても奥行き知覚はたいして損なわれない。それでは、両眼視できないときに私たちが実際に失うものはあるのだろうか?一つは自分の身体を透視する能力だ。ほかは?それが透視能力だ。
目の前に、指を立てて、その向こうの景色を見ようとすれば、指は二本になり透けて見える。この時、背景を見るのに指は邪魔にならない。つまり透視しているわけである。
未来を予見する力
現実世界での生活でこのような視覚像に出くわすとき、私たちは動いており、先ほどのような静止画の場合には錯覚だったものも、実生活ではじつは正確な知覚なのだと私は言いたい。すなわち、私の見るところ、人間が知覚の錯覚を犯すのは不自然な刺激が示されたときに限られる。錯覚が起きるとき、私たちの脳は目の前の現実と一致しない知覚を構築している。だが、こうした知覚が生み出されるのは、自然な状況下ではそうした知覚が現に周りの世界の真の姿を表すことにつながる場合が多いからだ。錯覚を論じる上で「運動」は決定的な要素だ。
私たちは、現在を知覚するためには未来を見る必要があることを知り、続いて未来を見る獄単純な方法の一つとして、未来を自ら生み出すことを検討した。多くの場合、とりわけ前進しているときには、これはじつはほんとうに簡単だ。未来を見ることが可能なのは、視覚的な特徴が時間とともにどのように変化するかを、私たちの視覚系が承知しているからにほかならない。そして、けっきょくのところ、私たちがいちばんコントロールしたいのは、現在なのではないだろうか?
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