秦氏の謎 関裕二
太秦広隆寺の不思議
三柱鳥居は、北を頂点にして、南側が東西を結んだ底辺になっている、そして、東南東の方向には稲荷山、西南西の方向には松尾山が位置している。それぞれが秦氏が祀る伏見稲荷大社と松尾大社の神体山である。この方向は特別な意味がある。三柱鳥居から見ると、冬至の日、ちょうど稲荷山から朝日が昇る。また、同日、夕日は松尾山に沈むのだ。したがってここは秦氏にとって重要な稲荷山と松尾山の遙拝地にたる。稲荷山と松尾山の正反対側には、比叡山と愛宕山が位置していて、夏至の日の出、日の入りが遙拝できる。さらに、北に目を転じると、ちょうど双ヶ丘がある。この山中に七世紀前半頃の古墳群があって、被葬者は、嵯峨野一体の首長墓の系譜に連なり、秦氏の祖霊の眠る聖地と考えられる。
「風姿花伝」第四神儀の中で、世阿弥は猿楽の起源と秦河勝について、興味深い記事を残している。秦河勝の不思議な伝承である。世阿弥は秦河勝と同族だが、世阿弥は秦河勝が祟る鬼だったと記録しているのである。
京都の臍と呼ばれる六角堂。
境内東北隅に聖徳太子二才蔵を祀る太子堂があって、その昔太子が沐浴をしたとする言い伝えの池が残る。聖徳太子の右腕となって活躍した小野妹子の末裔が聖徳太子を偲び、「太子沐浴の池」の脇に坊を構え、彼らは「池坊」と呼ばれるようになった。
傀儡子は定まった住処がなく、天幕で暮らし、移動生活を送っている。習俗は中国北方の異民族によく似ている。狩猟を生業とし、木製の人形を生きた人間のように操り、手品をやって人々を驚かせている。女達は化粧をし、媚びる。通りすがりの男でも、契りを結ぶ。彼らは農業をせず、朝廷に隷属していない。自ら戸籍を離れ、誰の支配を受けることもなく、権威を恐れない。課役がないことを楽しみ、夜になると百神(百太夫、白太夫)を祀り、はやしたてる。
秦河勝が猿楽の祖だったわけは、聖徳太子が「六十六番の物まね」を秦河勝に演じさせたためだ。聖徳太子は六十六番の面を秦河勝に与え、その中の鬼面だけが、円満井坐に伝えられた。おの鬼の面こそ、「根本の面」だったのである。
一方、宿神は翁面なのだが、翁面と鬼面は一対だという。「柔和、憤怒」「善、悪」「怒り 夜叉」の一対で、一体異名なのだという。
「宿神の正体を明かす」という意味の題名である「明宿集」には、「宿神は星宿神のこと」とある。星宿神とは北極星で、天空にあって唯一動かない星であることから神霊化され、「太一」と呼ばれ、崇められている。中国では「大極」と言い、大極から陽と陰が生まれる。太一、大極、宿神は、宇宙の根源であり、混沌でもある。
ちなみにこれで、後戸の神の正体もはっきるとする、仏像は何面しているが、その「後戸」に現れる神が宿神が北極星だったから、当然のことである。
もうひとつ大切なのは、北斗七星だ。動かない混沌から陽の気を引き出すには、北極星をまわる北斗七星の力が必要となる。斗のかたちをした星座ゆえ、北極星(祖神)への供膳を届けるものと考えられた。さらに、「動く事の無い北極星=天帝」の乗り物が北斗七星である。
北(子)は水気がさかんで、水気の生が申だ。祖霊祭祀は北方祭祀だから、祖霊を祀るに際し「申」が活躍する。
例えば、天の岩戸(混沌)から天照大神(陽)を引き出すのは、天鈿女命で、この女神は申とつながる。猿女君の祖先になったのは、このためだ。
能の翁が猿田彦と同一とみなされるのは、やはり翁が「申」だからである。宿神=北極星を祀る者は「申」で、「申」は宿神の使者であり、また北斗七星を操って、宿神を先導する。そして、猿楽の本舞・翁の舞に際し、翁の面に、宿神が現れる。翁の面に表情がないのは、北極星としての「中立」であり「混沌」ということになる。そして、その一方で、舞手の動きによって、翁の面は、陽と陰の、二つの顔をみせるのである。
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