型の有効性について
型は自由を確保するためのものだった。
ということを今更ながらだが、最近知った。
型は一見、止まってみえる、そして固定されて見えるが
それは、外見のことであって、内面的には全くの自由である。
全方向に難なく動けるし、その感覚があまりに自由なので、
だから結果として止まってみえるわけです。
普段、私たちが自由という言葉を使うとき
何かの欲求の裏付けがあったりして、
自由と叫ぶ割には、進む方向性がはっきりしていたりする。
欲求のはけ口が自由だと勘違いしているわけです。
ところが、全方向に自由であるとき人は、かえって動けなくなる
これが型の世界の本質なんだというわけです。
この自由を失ったとき、居つきがおきるわけなのかな?
そして、この自由を確保しているとき、我々は、完全に集中している。
このことも勘違いしやすいところだと思うのですけど
集中は、精神活動だと考えてしまいがちです。
「集中しなさい!」と先生に言われれば、
精神を操作して何らかの集中状態をつくろうとしていたような気がします。
ところが、型を使えば、精神活動とはまったく無関係になるわけです。
型をとるという意志だけを発動すれば、それですむわけです。
これを例えば演劇で考えるならば、演者は、所作を型に入れれば
それだけでもう演技の半分は終わったようなもので、
しかも精神は、使われていないから、感情に気を配ることがとても簡単になる。
それを知ってしまうと、もうそうとしか動けない所作が随所に出てくるわけです。
つまり舞台で型どおりに動いていれば、決して集中が切れることの無い
はりつめた演技を続けることが容易に実現できてしまうわけです。
とっさに予期せぬ事件が起きても素にもどることもなく集中は持続するわけです。
こんな素晴らしい型の世界ですが、問題は、この型が、ほぼ絶滅危惧種なので、
考古学者のように動きの中の型を発掘することが現状強いられることになります。
ただ、それは楽しい時間になるかもしれないような気がしますが、、、、
たとえが悪いかもしれないが
子供が箸と茶碗をちゃんと持てないのは、
子供の自由でしょ!ではなく。それは欲望のまま動物のように生きることで、
本当の意味での子供の自由は、ちゃんと型を教えるべきことなんだと思う。
型が出来たとき初めて、自由を確保できる。あとは好きに進めばよい。
これらのことを判で押したように精神論として片付けることを近代はしてきた。
そして、型なんて古くさい。型は破ってこそ価値があるものなんだと
型を学ぶことすらせずに破棄してきたのが近代だと思う
そのように思想誘導をしてきたのは、科学では理解できない世界だからだと思う。
だから、合理主義で、箸と茶碗は、ものが食べられれば良いんでしょうと、
結果だけを求めて、せっかくあった型を捨ててしまう。
型を失った人は集中を欠き姿勢は悪く、ストレスだけがのしかかってくる。
(精神にとって楽な姿勢は、身体にとっては辛い姿勢であることが多い)
とても、ものを食べて美味しいなんて感じられる身体になっていない。
美味しいって感じるのは、身体ですか?精神ですか?
だから化学調味料を美味しいって感じるようになるのかも?
さて、みなさん、そんなわけで一度で良いですから
脳でする集中ではなく身体がおこす集中観を味わってみてもらいたいものです。
そうすれば日本文化の謎がかなり解けると思います。
動くことで集中が切れるのではなく、集中が増していく、
そんな経験は楽しいに違いない。笑
そういった経験する場も、学ぶ場も無くなってしまったことが、寂しいですね。
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