見るということ

 miru

 見るということを私たちは普段、当たり前のように行っています。
 しかも、見ることによって得られる情報量は、他の感覚器官を圧倒するほどです。
 そして、何かを見える形にすることが一番良い伝達方法だと考えられているわけです。
 つまり、見ることや見えることに全幅の信頼を置いているわけですね。

 その反面、見るという行為はかなり錯覚を伴います。つまり簡単に騙されてしまいます。
 しかし、それらも生きていくために必要な錯覚であるとし、その地位は揺るぎません。

 「俺は、この目で見たことしか信用しないんだ」なんて言ってしまう人がでるほどです

 問題は、あまり気づきませんが、見るという行為がかなり作為的であることです。
 自然に目に入ってきた物を見ているのでは無く、
 見ようとしたものしか見ていない可能性があるということです。

 あるフランスの文化人類学者が、マダガスカル島の原住民を調査しているとき、
 海に戦艦を見つけたので原住民に知らせたところ、誰一人としてこの戦艦を見ることが
 できなかったという。視力はもちろん原住民のが上回っているのにもかかわらず。
 かれらには、空と海しか見えていなかったというのです。

 フランスの哲学者アンリ・ベルクソンの外界認識について考察によれば、
 我々が物体を視覚によって認識するとき、
 その物体の物理的映像をそのまま認識しているのではなく、
 イマージュ(心像)、則ち既に素描として認識できる最小単位によって
 置き換えて認識しているにすぎない。

 日本においても、ペリーが黒船に乗って来たとき、この黒船を見ることが出来ない人が
 少なくなかったという記録もあるそうです。見ようとしているものしか見ていない。
 芸術家は、僕たちとは違った目で物をみているとよく言われます。
 つまり、何を見るのかが問題なわけで、
 ただ漠然とみていてもなにも変わらないのかもしれません。

 日本にはそんな哲学者は存在しなかった、
 しかし、見るという行為のいかがわしさには気づいていたようです。
 ですから、見るという作為が及ばないものを佳いと感じてきました。
 焦点が定まらない空。どこまでも澄んでいく海。
 たえまなく流れる河。ゆらいでとどまらない炎。

 色彩もそうです。現代のように簡単に色を特定できる反射してくる色を嫌い。
 複雑で、浸透していく色、
 自然と同化して表情を変えていく染めなどを佳しとし好みました。

 これらは、普段作為的に見てしまう日常からのみそぎとして、好まれたのでしょう。

 こうして考えると見るというのは
 圧倒的な情報量の割には欠落していることが多いようです。
 そして、当たり前ですが、最大の欠落は見えないものは、見えないのです。

 私たちは、学習によって虹を7色に識別します。そして、見ることの出来ない紫外線や
 赤外線の存在も科学のおかげで知ることが出来ました。そして、見ることの出来ない
 この紫外線や赤外線のが私たちの身体に影響が深いことも知っています。
 ちょっと待って下さい。見ることが出来ないのに影響を大きく受けている。!!
 私たちは、人を見ることが出来ます。恋人同士なら、相手の目を見つめて愛してると
 告白するのが、現代の表現方法でしょう。
 しかし、人間の影響は、ほんとうに可視部分だけでしょうか?
 人の身体には、虹のように見ることの出来ない部分はほんとうにないのでしょうか??

 日本にはそんな科学者は存在しなかった、
 しかし見えないものの力の存在に気づいていた。
 お茶の席で、主人と客人が対峙しないのは、見るという行為を避けるため。
 見ることの軽薄さと信憑性のなさを、薄々感じて、
 見えないものを感じる楽しさを佳いとしていたのでは、ないでしょうか?
 黙祷する時、目を開けている人はあまりいません、
 神社でお参りをするときも目を閉じます。
 視覚による情報が雑念につながるとでも言いたいのでしょうか?
 こうした文化の中で、武士は気配を感じることを磨いてきました。
 見るということの弱点を肌で感じていたからでしょう。

 落合博満元中日の監督さんは、若手にノックをするとき
 わざと球を追いかけても届かないところに打ちます。どうしてなのか?
 「届かないものを追いかける姿をみれば、野球に対する姿勢が見えてくる。
 それを見れば、伸びる選手かどうかすぐに分かる。
 若者は試されてることに気づくべきだ」
 また、井端選手のコンバートについて、理由を聞かれると
 「彼は、ボールを目で追い始めた、これではプロとしてはもう限界だ。
 だから、初心に戻ってもらいたかったんだ」

 僕は、見るということをあまりにも安易に考えてような気がします。

 現代は、見えないものを無視する傾向にあると思います。
 人生の目標もとにかく可視化して、具体的に進むことを勧めるでしょう。
 そうした風潮のなかでは、こうした日本の古い考えは、精神論としてすり替えられて
 それはそれ、現実はしっかり見て確認して行動しましょうってことになりがちです。

 世の中は、自分の将来を含め、見えないことだらけです。
 それらを可視化して、安心することも必要なことでしょうが、
 見えない未来を不安がらずに、見えないまま向き合う姿勢も
 悪くないものだと、日本人は考えていたのだと思います。
 そのための技術やヒントは、古典の中にいっぱい隠されているわけです。
 いや、隠されてはいないのですが、僕たちの考えがそれらのヒントを隠して
 見えなくしてしまったのでしょう。

 届くことのない見ることもできない目標に向かうことが、人生なのかも?

 引用参考文献

 

脳と刀―精神物理学から見た剣術極意と合気

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