舞台に立つということ

ajisai

 かなり以前のことですが、ある劇団の新人公演を見に行った。
 スタニスラフスキー演技を教えているところで、演目もチェーホフだった。
 当然、実験的な公演であるし、しかも養成所なのだから、
 期待はしていなかったのですが、それにしてもすこしひどかった。
 みんな役作りに没頭しているのは、よく分かるのだが、
 集中するあまり、自分の殻にとじこもって、亡霊のように見えた。 
 相手役もいなければ、観客もいないし、そして舞台にもいない。
 そう、舞台に立っていない、そう僕は感じた。
 観客はいったい何を見ればよいのだろう。

 このことは、僕も若い頃に幾度か指摘されたことがある。
 「舞台に、ちゃんと立っていない」
 しかし、そんなことを言われても、自分としてはどうして良いのかも分からず、
 腰を落とせばよいのか?とか、足を踏ん張っていれば良いのか?とか
 色々考えたものである。
 だって、自分としては確かに集中していると自負していたし、
 そうやって精神集中していれば、立ち姿なんて自然と
 その役の立ち方になっていると思っていた。

 また、そのようなテクニカルなことは誰も教えてくれないので、
 役作りをすれば、立ち方も出来てくるものだと思っていた。
 たぶん、この劇団でも、そういう指導方法なのだと思う。
 本場、ロシアから来た先生がそう教えているわけだから、問題ない
 立ち方は、役作りの中で、精神的作業の中で作られていくと解釈されていると思う。

 また、一方では、映画などで活躍しているような有名人は、
 たとえば、歩き方を工夫して足が悪いような歩き方をしたり、
 わざと癖のある歩き方をしたりして演技派なんて言われているのを見たりする。
 これらの役作りは、あきらかに外的であり、精神とはまったく関係ない。
 マンウォッチングをして、癖のある歩き方や立ち方の引き出しを増やして
 そこから、取り出せば良いということであるし、前もって
 計画して戦略的にしかけているわけであります。

 しかし、どうなんでしょう。この二つの役作りは、相反することのように
 感じられるのですが、これうまく融合してやるのがプロだと言うわけですか?
 つまり、どちらも程々にということになるわけでしょうか?

 このあたりがとても、初心者にとってわかりづらいところだと思いますが
 このさじ加減は、各自にまかせたままなのでしょうか?
 作戦を練っても良いのは有名人で、無名の人はリアリティを追求しなさいと。
 書籍でも、講師でも、この説明をしてくれているものがないように思われます。
 こうした矛盾は、教えようがないのかもしれませんね。

 そこで、僕がこの歳になって、気付いてきたことで言わせてもらえれば
 特に日本の文化を大切に考えるのであれば、

 立つというのは、精神的作業ではなく、まぎれもなく身体的活動です。
 ちゃんと立つというのは、その外形的なかたちのことではないのでしょう。
 僕たちは、よく集中しなさいと言われる
 つまり、集中して精神統一したあとで、立とうとしているわけです。
 これでは、立つことが付属行為になりかねない。
 舞台の上ではなく、集中の上に立っているのである。
 だから、集中しているようでも、どこにどう立っているのか伝えることが難しい。
 立つことと集中が別のものになってしまっているからでしょう。
 そこで、これはいっそ逆転するべきことなのでは、ないでしょうか?
 まず、舞台に立つこと、そして集中する
 いえ、この立つという行為そのものが、集中を誘う。
 つまり舞台という、ある集中感をもった空間に、足を踏み入れたとき
 その集中感の中に自分が入り込めるように、立つということです。
 立つことがもう役作り手助けになるように立つわけです。

 ですから、これらはまったくテクニカル的に教えられるべき所作なのだと思います。

 さてさて、そうはいったところで、
 こうしたテクニックをを教えてくれる養成所がありますでしょうか?
 難しいところですね。
 ですから、養成所のひとたちは、とりあえず落ち込むこともないのでしょうけど
 少なくとも自分の殻のなかにこもって集中していても、らちが開きません。

 舞台に立つと言うことは、きっと
 その場にある集中感を壊すことなく入り込む技術であって、
 自らの、集中を押しつけるように、強引に舞台を汚すものではない。
 そんなことを感じるようになりました。

 つまり、役作りよりも先にあるべきことなのかもしれませんね。

 これは、舞台に限ったことではなく、どんな場面においても有効な事だと思います。

 

コラム

 伝ふ演技ラボ

 

 

 

 
  


Copyright(c) 2013 伝ふプロジェクト All Rights Reserved.