型をとるということ

kyoto223

型:芸能や武道などで、規範となる動作・方式。
 芸における形式、精神両面にわたる骨格、しきたりであり、こつでもある。
 日本の芸は様式性(視覚的)、伝承性(精神的)においてとらえられるために、
 時間空間の定着として型が成立することになる。
 型は家の芸となり、秘伝、口伝の伝授形式をもち、それが示されることに寿祝性、
 礼儀性を帯びる。(ブリタニカ国際大百科事典)

分かったような、分からないような説明ですが、まあこんなところでしょう。
しかし、実際に型という言葉は、違う意味で捉えられているようです。
型にはめるという言葉の通り、だれが、どういう意図でそういう風評を流したのか?
非常にネガティブな言葉として、自由を奪う物として型という言葉があると思います。
現代人の多くが、型という言葉に、まず嫌悪感を抱くのではないのでしょうか?
人はもっと自由で、何の束縛もなくのびのびと生きるべきだという。
アメリカ的幻想を信仰するが故に、少しでも決まりの有るものに抵抗を感じるのでしょう。

ほんとうにそうなのでしょうか?

型とは、何年もかけて作られた人々の智恵の結晶だと思います。
自分の力ではとうていたどり着けない領域に行った人が、
型という形式にして、後世に伝承しようとした。

私たちは、科学全盛のこの時代に、伝承するものは、全て言葉や記号や図解で
しめされていると勘違いしているのでは、ないのでしょうか?
その一方で、言葉ではなかなか、うまく伝えられないと歯がゆい思いをしたことは
ないでしょうか?

ニュートンやアインシュタインが数式で残した、偉業を、
日本人は型として残しているのだとしたら、
ただ自由を奪う物と、切りすてるのではなくて、
型として残された暗号を日本人として解明して習得するべきなのでは、ないのでしょうか?
型とは科学ではとうてい真似できない、精神とコツの両方を一度に得るアイテムなのでは?
そう考えると夢は広がるわけです。

そして、一般にいわれる型にはめるは、なにもお菓子を作るわけではないのです。
どちらかと言えば、型を利用するが正しいのでしょう。型をとるです。

自由が束縛されるからと、画家が絵の具から作り出しますか?
音楽家が楽器から作るのですか?違いますよね
もちろん、そこから取り組む人もいるでしょう。しかし、短い人生なかなか
難しいですね。型とは、そうした基本を一から自ら開発しなくても良いように
あらかじめ、先人の人たちが、型として残してくれていたのです。
これを利用しない手は、ないでしょう。

ただ、私たちはすでに、その型の紐の解き方をどうやら忘れてしまったのです。
そのことは、とても悲しいことであります。

でも型とは、そんな夢のアイテムなんだと、僕は思うのであります。

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