レッツ・トライ・ネガティブシンキング
世の中には、色々な考え方があるわけで、それが良いとか悪いとか言っても始まりませんが、
あまりにも、ポジティブシンキングが、大勢を占めているわけでして、
僕の天の邪鬼的な要素と、陰陽のバランスからも、ここはあえてネガティブシンキングを
肯定する意見も、ないとだめだと思いまして、書いてみる次第です。
ですから、ポジティブシンキングが良いと思っている人が読むと
気分を害する恐れがありますのであまりお勧めしません。
ていうか、読まないで下さい。嫌いにならないで~
そして違うコラムを読んで下さい。よろしくお願いいたします。ごめんなさい。
*注意*ここから先は、ネガティブシンキングに興味のある方のみお読み下さい。
だいたい、世の中が住みづらくなったのも、はびこる拝金主義も、戦争もすべて、ポジティブシンキングが、いけないんじゃないかって思い始めています。そんなんじゃない、それは一部の人間だというかもしれませんが、そういう人たちの弁明に使われるのは目に見えてるわけです。
勝利は努力して勝ち取るんだ、つまり敗者は努力が足りなかったからだ、運ですら、努力でものにできるんだ。ということは、どんな悪い事をしても。上に立つ人は、すでに努力した人で、平民貧民弱者は、努力を怠った人だから、切りすてても良い。という、三段論法が成立します。
ですから、ポジティブな人とエゴな人はかなり近い存在です。
最近では、ネガティブシンキングをネットで調べますと、病気だとまで書かれる始末です。
まあ、絶対的に有利なポジティブシンキングですが、
すでに、平家のおごりに似たようなたたずまいすら感じます。
ポジティブシンキングにあらずんば、人にあらず。
せいぜい謳歌してもらうとして、我々敗者である、ネガティブシンキングのが、好きな人もいるわけで、(たぶん、いやそう信じて)その人たちのためにも、ここはネット上にそういう意見もあるんだよと、記すためにも、危険を承知で、この話題に取り組もうとするわけです。
よろしくお願いいたします。
序文・前提として
このHPのコンセプトにある二項対立からの脱却というテーマからして、このポジティブ対してネガティブを当てるのは、当然主旨から逸脱しています。
ですから、ネガティブという発想は、また違う次元の物でなくてはいけないのでしょう。
そして、ネガティブの中にも能動的ネガティブと受動的ネガティブという二面性もあります。
今回、この二項対立からの脱却ということは、伏せて進めていきます。よろしく。
そもそも、ポジティブな人がネガティブを嫌う理由として、
ネガティブな事を言っていると、ほんとうにそうなってしまうよという伝説ですね。
もちろん、そうなのかもしれません。
そういう負のイメージを強く持つとだめだというのですね。
それは、とっても一理あります。しかし、では、ポジティブな人が負のイメージを
もっていないかと言えば、厳密的にはあやしいわけです。
例えば、有名になるぞとポジティブな人が強く思うわけです。
そう強く思えば思うほど、実は現実として有名で無いことを肯定しているわけです。
この発想は、考えようによっては危ないと思いませんか?
逆にネガティブなひとが、有名になりたくないと言ったら、現状、すでに有名である
可能性は排除できませんね。つまり、有名人であるイメージがすでにある可能性がある。
そうしたら、どちらのが良いのかな?これは、困った問題ですね。
ポジティブな人ひとが陥りやすい間違えのひとつに
まず、現状の打開、つまり今はだめでこれからよくなるぞと考える事ですね。
つまり、自己否定です。これは随分負のイメージだと思うのですが、違いますか?
吾唯足るを知るという言葉があるぐらいです。
そんな古い考えは、現代にそぐわないと切りすてること自体を、戒めていると思います。
長年受け継がれてきた智恵は、それなりに重い事だと思います。
私たちが目指しているものは、もうすでにあるのかもしれません。
新しい物を作り出して行くことは、世の中が乱れて行くことになりかねません。
ポジティブな考えは、ものを増やしていきます。足し算の世界だから。
私たちがそこに在るものに気付かないのは、ものをどんどん作り出していくから。
元来日本人は、引き算の中に美徳を見いだしてきました。
煩悩を消し、自我を消し、ものを消し、そして見えてくるものを佳しとしてきた。
心を清らかに保つのは、なにかを捨てたときなのかもしれません。
涼しさや 鐘をはなるる 鐘の声 (蕪村)