聴覚思考 外山滋比古

耳のことば、目のことば

 多種多様な人間能力のうち大本は目(視覚)と、耳(聴覚)である。近代は、視覚を聴覚より優先するものときめてしまっているようであるが、どういう根拠によって、そうなったのか吟味、考究されることは稀であると言ってよい。
 発生的に見れば、先に述べたように聴覚が視覚に先行する。耳の方が目よりも重要であるかのようであるが、さきに発達したものの方が、あとから発達する能力より優秀であることを証明するのは、容易ではない。
 ことばについて、目の出番は、文字を待たなくてはならない。近代教育は、文字を教えるところから始まったことを現代ではほとんど忘れてしまっている。そのために視覚言語が、”はじめのことば”であるような錯覚を生じることになった。
 よみ、かき、さんじゅつ。
 すべて目のことばである。耳のことばは”卒業”してしまっているかのように考えたのだとすれば、大きな誤解であると言わなくてはならない。
 リテラシイ、識字能力は、音声言語が既習であるという前提に立つべきであるが、それをあいまいなままにしてスタートしたのは適当ではなかった。近代人の言語能力が、昔の言語文化をはるかに上まわるものになっていないのは、根拠なく視覚言語を聴覚言語より上位のものとした偏見の故であると言ってもよかもしれない。
 文字には表音文字と、表意文字がある。 表音文字は、日本語でいえば、仮名であらわされる。表意文字は、漢字になる。ヨーロッパのことばはほとんど表意文字のみを用いてきた。それに対して、日本語は、ヨーロッパと同じ表音文字の仮名を用いるが、それだけでなく、表意文字の漢字を随時、混入するという複雑な言語をつくり上げた。
 声だけのことばを使っている限り、表音文字と表意文字が混用されていても、表音の言語と変わるところがないといってよい。しかし、文字の読み書きを考えると、単層言語と複合言語の差はきわめて大きい。
 日本人はそのことを考えずに、ヨーロッパをまねてリテラシイ教育をして疑うことがなかった。日本人として失ったものははかり知れないほど大きい。日本語の個性はユニークなもので、ヨーロッパ流の言語教育では、充分にその力を発揮させるのは困難である。

日本語の特性

 明治のはじめ、欧米のことばに触れた日本人たちが、外国では、話すことばと書くことばとが同じである、つまり言文が一致していることに気づいた。日本のことばは、言と文がおおきくへだたっており、別々のことばである。両者を一致させるのが、文明開化であるとして、明治二十年代に言文一致運動がおこった。
 われわれはそのように教えられて、それを真に受けてきたが、日本人が、言文別途であることに気づいたかのように考えるのは正しくはないだろう。日本人の外国語の知識はもっと表面的なもので、そういう比較言語学的考察はまずできなかっただろう。
 外国から日本へやってきたイギリス人は日本語を学んでびっくりしたにちがいない。イギリス人チェンバレンは言語学者といってよい教養と知識をもっていたから、日本語の言文別途であることを理解した。そして、一致させた方がよいと考えたのであろうが、そこが外国人の勝手である。欧米と大きく異なっているからといって、それを自分たちの文化に会わせようというのは文化的覇権主義である。しかし、それを反省できるほどの見識は当時の外国人になかったのは当然で、事態はいまでもあまり変わっていない。
 外国人のそそのかしによって始まったのが、日本の言文一致運動である。山田美妙など文人がそのために努力したと伝えられているが、言文別途であった歴史的事実すら充分理解していたとは思われない人たちに、言文一致運動のできるわけがない。ただ、外国のようにならなければ日本は進歩しないように思い込んでいる人たち、社会が賛同して文化運動として注目されたのである。

 日本語において言文一致させることが困難であることを認めたら、その得失を明らかにし、失うところを補うことを考える必要があろう。視覚的言語のほうが聴覚的言語より高級であるように考えるのは、文化的誤謬である。言語は聴覚的なものが基本であることを、近代のリテラシイ重視の社会はあえて黙視したのである。文字からことばを覚えるこどもは存在しない。リテラシイ教育主義はそれを知らぬふりをして、文字からことばを教えようとする。日本は独自の言語文化の歴史を顧みることなく、視覚中心の言語観に乗り換えたのである。それによって日本人の失ったものは小さくない。
 視覚のことばである文字は、視覚思考を育成するには便利である。しかし、聴覚的言語にとって、視覚的なことばはいわばじゃまになる。

 言文別途の言語生活をしている人間にとって、言文一致に近い言語生活をしている人たちと、同じ土俵で競争することは賢明でないことははっきりしている。
 言文別途の社会における文化というものが言文一致言語社会とは異なり、しかも、からずしも劣っていないということを明にすることが、独立日本文化の課題である。それには、いたずらに、外国の模倣をしているのではいけないことは、きわめてはっきりしている。

 一神教文化と多神教文化が対比されて論じられているらしいが、日本を多神教とするのは妥当ではないような気がする。日本人の宗教は、神道と仏教の合体した神仏をともにあがめ、お参りする。その他の神には、案外、冷淡であるのかもしれない。
 純ではなく、二つのものを双方認める相対主義と言ってもよいかもしれない。ここでふと、日本語が、漢字と仮名という性格のことなるものを混ぜ合わせて調和に至っていることが思い合わされる。

 

 

 

 

 

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