稽古と積み木は、ちょっと違う?
最近は、何か教えるとなるとシラバスというものの提出を求められます。
僕は、とっても苦手なんですけどね。笑
逆に学ぶ立場に立ってみれば、とても先がみえて学びやすい。
自分が今、どのあたりに居るのか確認できてよい。
自分に足りない箇所が、わかりやすい。
目標ができて、やる気になれる。などなど、良いことだらけですね。
でも、ふと思えば、これはとても客観的な立ち位置に自分を置いていますよね。
簡単なプラモデルでも作っているなら、これでも良いのでしょう。
学ぶことと積み木を積み上げていくことを同じ様に解釈してるところがあると思います。
僕はこの発想が、近代の合理化が進んだ教育の落とし穴のような気がします。
しっかりした基礎(土台)の上に知識や技を乗せていくのでしょうか?
でも、このようなしくみですと、「初心忘るべからず」が難しくなりませんか?
初心(基礎)を土台としてしっかり固定したうえに稽古をかさねたら、
もう初心(基礎)を顧みることが難しくなりますし、嫌ですよね。
しかし、進歩というものは実際には基礎の部分にしか有効でないようなのです。
ですから、積み木のようなイメージの稽古ではあとから厳しくなるわけです。
土台(基礎)が変わった時に上に積み重ねたもの(経験)まで、変われば良いのですが。
ここが、誤解しやすいところなんだと思いますが、基礎はさっさと終わらせて
次を学びたくなるのが、人情というものなのですが、どうもそうではないようです。
基礎はいつまでも基礎だし、しかしそれがないと次に進まないということでもない。
つまり、積み木をイメージして組み立てていく学びではなく、
なんだろう?水槽のなかに魚を放す感じなのかな?笑
やがて魚が増えて、それでもまるで大きな一匹の魚が泳いでいるように同調していく。
そんな感じが、ひょっとした稽古の仕方なのかもしれない。
基礎は、その中にまぎれて一緒に泳いでいるわけです。
だから基礎だけ、とりだして進化することが楽になる。
と、こういったイメージは、どうでしょうか?
僕が言っても、説得力がなさすぎなので、ちょっと本を引用してみました。
能について、白洲正子さん「お能・老木の花」の冒頭文 資料室
透明でまるいもの、それには中心といえるものがありません。まんなかにひとつの点を見出すことができません。逆に言いますと、中心のないものはそのどの一部分をとっても中心と言えます。無数の点でできあがっているのですから、点は無限に発見することができます。そのようにお能は、全体をみても能であるとともに、そのごく小部分であるところの「能の型」ひとつをとっても能より他のものではありえません。
一見なんの脈絡もなく、ランダムに学ばないといけないのだけど、
いずれ大きな一つの流れができてくる。そう信じるわけです。
日本の文化、そういう広大な範囲から、学びをしようとするならば、基礎をどこに
築いてよいのかも分かりません。ですから、学んだ物を一つ一つの経験を、人生の海原に
悠々と泳がせておけばよいのでしょう。そうすれば、ジャンルの違うことにまで、
泳いでいる一つ一つの経験の応用が効き始めるわけです。
長くなりましたが、何が言いたいかと言いますと
これが、僕がやろうとしている伝ふプロジェクトが、全然整理されていないことの
言い訳です。ごめんなさい。
侍クラブでも、ご迷惑をおかけしております。笑