武術伝書の研究

新陰流流祖上泉秀綱の伝書

上泉は、自身の新陰流兵法を、もはや殺傷の技と捉えず、技の修練によって仏智を磨き、無明を断ち、安心を確立する。つまり、解脱を目指す人間修業の道であると見なして、武術家の行き方の中に、その道を位置づけた。

 徹底して技と体の動きの本原である心の構えの無碍を主張している(現代剣道においても、心が相手の動き、剣先などにとらわれて、技や体の動きのとれない状態を、居付く、といってこれを諫める)。当流では、構えという言葉を嫌い、くらい(位)を用いているが、極意である「転」(まろばし)の象徴が「無形の位」であり、そこから起出する実際の技が「活人剣」という。

 上泉「懸待表裡は一隅を守らず」という表現なのどで示される「転」の心境(敵の動きに随って円転、自由自在な動きをする意)は、実は、禅の悟道に通うる面があると上泉が解釈している。
 上泉は、この関係を「牡丹花下の睡猫児」という章句を引いて、両道の心境に一致点があることを記した。文字通り、武術が人を活かす武道となり、文化として位置づけられる素地を見出した。

 他ノ流ニハ、下段ノ太刀殺人刀ト云。新陰流ニハ、下段之太刀ヲ活人剣ト云

一刀流伝書

一刀流兵法・十二か条
・二之目付 ・切落 ・遠近 ・横堅上下 ・色付 ・目心 
・狐疑心 ・松風 ・地形 ・無他心通 ・間 ・残心

 「色とは構や血相や威嚇の所作や技の動き出しや尽きたる有様などをいう」が、実はこれは「目に映る仮の影の反射」であって、相手の実体でhない。ゆえに「次々に移っていく色に取りつかず、その奥に潜む実体を捉えよ」という。ここにいう実体とは、「相手の色の本元である真意である。この真意に「わが心の切先をつけてゆくと、相手の隙が自然に出てきて、これに応じて勝ち得ることになる」という。戦法とすれば「形に於いては相手の色につき、心に於いてはわが色につけて勝つ心得」となる。

 切落というのは相手が切りかかるのを己も応じて切り込むことによって、相手の太刀が鎬ぎはずされる。相打ちの一拍子の勝なのである。それには先ず自らの心を切落とすことである。

 残心。心を残そうと思って残すことではなく、一度切って一つの技が終わった後に切先と体と心が尽きることなく直ちに生に帰り、切って尽きず、突いて止まず、常に心を生に満たし、守りと懸りを完うするのが残心である。残心が即ち生滅をつなぎ、太刀を不生不滅となす鎖であって、一刀斎は、これを太刀不生不滅に至る秘法とした。

 水月の教え、月が清く静かなごとく、心が明鏡止水であれば、相手の僅かな隙も心の明鏡に写って打てるようになる。

念流

 念流の念の字は識と同じ事なり。先ず始めの一念なり。赤きとも白きとも何色にても、一寸見たときの初めの一念を識と云うなり。分別の出る前なり。又耳に聞き鼻に嗅ぐも舌にかんじるも身に握るるも同じ心持なり。皆最初の一念なり。

 剣は煩悩の魔を打ち破る最強の武器であり、仏、菩薩がその本誓を表示する所持物(三摩耶形)であるとし、その剣で人間の本性を穢すさまざまな欲望-煩悩を裁断すると謳っている。

 仏の化身である童子から変じた天狗に、教外別伝の「手之密術」を受け、これを「光剣光身之位」とした。これは特別な技法ではなく、両手掌の微妙な握り加減である「手の内」をいう。

 「一刀両断」は、有無の二見を一時に裁断するという意味

 「過去、現在の二術」の内「過去」は「魔法」であり、「現在」の術は「剣術」を指す

 

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