日本の色のルーツを探して 城一夫

色と「いろ」の語源

漢字の「色」は訓で「いろ」、漢音で「しょく」、呉音で「しき」と読む。呉音とは漢音以前にあった漢字の日本語読みで、仏教用語に多い。このことから「色」は中国伝来の言葉であることが分かる。漢字の「色」の起源について言語学者の藤堂明保は「かがんだ女性とかがんでその上に乗った男性とが身体をすり寄せて性交するさまを描いたもの。セックスには容色が関係することから、顔や姿、いろどりなどの意になる」と記述している。このように中国語の「色」は、本来、男女の性愛に関した象形文字であったと考えられる。
中国の「色」という言葉は、仏教とともにわが国に導入されたとの説がある。5世紀頃、「般若心経」が伝えられ、その中の「色即是空」「空即是色」が「般若心経」の精神を最も的確に表現するメッセージとして高い評価を受けた。この「色」はシキと読ませ、「すべて存在するもの」という意味である。そなわち「全て存在するものは空であるが、空もまた存在するものである」という空の哲学であった。
一方、わが国では「いろ」は接頭語で、同母血縁の意を表した。同母の兄弟姉妹にはかならず「いろ」という接頭語をつけ、姉は「いろね」、妹は「いろも」、兄は「いろえ」、弟は「いろと」と言った。この「いろ」には「色」の意味は含まれていないが、この同母の胎内から生まれた関係という意味から、性に関した言葉となり、やがて「いろ」ごのみ、「いろ」ごとなどのような言葉が出てきたのではないかと思われる。
上代において「色」に代わる言葉は主に「匂ひ」であった。少なくとも「匂ふ」と「色」は共存していた。その一例として次のような歌が上げられる」

「春の苑(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照る道に出で立つ少女(をとめ)」
万葉集 大伴家持
「紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」
万葉集 額田王

ここでは「にほふ」のは桃花やむらさき草ではなく、花の色の紅や根の紫色のことであり、色そのもののことである。
前述の古語辞典を検索してみると、「匂ひ」は、「①色が美しくはえること、②つやのある美しさ、気品、③光、威光、④染めの色、襲の色目」とある。また、「匂ふ」は、「丹穂ふ」「丹秀ふ」「丹延ふ」を活用させた動詞で、「①木・草・花・赤土等の色が染まる、②つややかに美しい、③色が照り染まる、④赤い顔料をさすから、「丹穂ふ」で赤い顔料が映えるとか映し出すの意味になる。
一方で「色」という言葉も使われている

「言ふ言の畏き(かしこき)国ぞ紅の色にな出でそ思ひ死ぬとも」
万葉集 大伴坂上女郎(さかのうえのいちつめ)
「花の色はうつりにけりないたずらにわが身世にふる眺めせしまに」
古今集 小野小町

ここでは「色」は「虹の色」「花の色」と明記されており、「色」が「彩り」を表す英語のカラーと同語として使われていたことがわかる。
このような状況下に天台密教の開祖・空海によって「般若心経」の神髄をまとめた「いろは四十七字」の歌が紹介される。

色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見し酔ひもせず

この「いろは歌」は仮名47字を一度しか使わずに、美しい韻を踏みながら、「般若心経」の「色即是空・空即是色」が伝える世の無常観を巧みに歌い上げている素晴らしい歌である。仏教の「色」はサンスクリット語の「rupaルーパ」に由来し、「全て存在するもの」の意味であるが、この冒頭の「色」は、仏教的存在であると同時に、花そのものとその色であることを「匂へど」「散りぬるを」の動詞によって巧みに表している。自然の移り変わりに「もののあはれ」を感じ取った平安人の繊細な心情に訴えるものがあったのであろうか。
この「いろは歌」の流布によって、「色」はモノの色という意味が次第に強くなって、「にほふ」から仏教的な「しき」も、世俗的な「いろ」「色ごと」の意味も全て包括した言葉として定着していったのではなかろうか。

日本の色のしくみを探る

国文学者の佐竹昭広によるわが国の色名に関する「古代日本語における色名の性格」と題する古典的論文がある。佐竹は「アカ」「クロ」「シロ」「アヲ」の4つの色名は、もともと色を表す言葉に由来するのではなく、「光」の色から生まれたと論じてる。これを「明(めい)、暗(あん)、顕(けん)、漠(ばく)」という言葉で表し、明はアカ、暗はクロ、顕はシロ、漠はアヲに対応する言葉であるとした。明は夜明けとともに空が赤く色づいていく状態。暗は太陽が沈んでしまった暗い闇の状態。顕は夜が明けて辺りがハッキリと見えることの「著」から転じた言葉で「シロ」。漠は明と暗の中間の状態、つまり青みがかかった状態をさす言葉で、「漠」のさんずい「シ」は青い水、「莫」の字は、草むらに太陽が沈んだ薄暗い「青」の状態を表すというのである。

陰陽五行説の色
6世紀頃、中国から仏教、儒教とともに「陰陽五行説」という哲学・思想が導入されると、それは、わが国の宇宙観ばかりでなく、政治体制、律令制度、天文学、暦学、都市造営、宗教、生活文化にまで大きな影響を与えることになった。「陰陽五行説」とは紀元前350円頃、斉(せい)の国(現在の中国、山東省北部)の思想家・鄒衍(すうえん)が提唱した思想で、宇宙は「陰陽」と「木、火、土、金、水」の5元素からなり、その5元素の「相生」と「相克」によって循環しているという考え方である。色彩に関していえば五行の「木、火、土、金、水」に対して、おおむねアナロジーに基づいて「青(緑を含む)、赤、黄、白、黒」の五色が対応する。
わが国の基本色の概念は、明暗顕漠の「アカ」「クロ」「シロ」「アヲ」の4色であるから、その概念と比較すると、古代中国の色彩感では、「黄」が重要な位置を占めていることがわかる。儒教の経典に関する中国の書物「易経」には「天地玄黄」という言葉があり、天の色が黒であるのに対して、大地の色は黄色とする記載がある。また「黄河」、「黄帝」、「黄門」などの中国では最上のものを指す言葉に黄色が用いられることが多く、皇帝の衣服の色にも定められている。

仏教の色
仏教がいつ頃伝来したかは諸説あって定かではないが、「日本書紀」(720年)によると、宣化3年(538年)、百済の聖明王から金剛の釈迦像と経典が献上されたという。その折、欽明天皇は「隣の西の国から来た仏像が光り輝いている」と驚いたという。異国から来た黄金に輝く金剛の仏像は、今まで神の姿を見たことのなかった大和人にとって、驚愕すべきことであり、まさに文明開化であったと思われる。アニミズム信仰のわが国では神は山であり、木であり、岩であって、御神体は鏡、勾玉、剣であった。そこに黄金に輝く幾多の仏像を、華麗な伽藍が出現したのである。
この仏教を国家安寧の規範とした推古天皇、聖徳太子らによって仏教は飛鳥を中心に定着していく。蘇我氏によって596年頃に法隆寺と金銅の飛鳥大仏が建立され、聖徳太子は、「法華経」「勝鬘教」「維摩経」を注釈した「三経義疏」を著したといわれている。仏教は国家鎮護の手段と奨励され、聖徳太子による四天王寺(593年)法隆寺(607年)、僧・行基(ぎょうき)による東大寺(758年)、鑑真和庄(がんじんわしょう)による唐招提寺(759年)などの寺院が次々と建立され、広く一般にも広まっていった。
これらの建築物や仏像がどのような色彩であったか、現在の古色蒼然とした佇まいからは推察がつかないが、鎌倉時代初期に著された「二中歴(にちゅうれき)」に、往事の彩色法が記されている。
その「第三造物歴・絵像丹」の項によれば「誦云 紺丹緑紫 上朱下丹」とあり、絵像の彩色法を四字熟語でまとめている。これに続けて「説云紺丹緑紫 者紺青之傍用丹色又緑青之傍用紫色」(紺青の隣には丹色を配し、緑青の隣には紫を用いる)のが良いとしている。つまり「寒色系の紺と暖色系の赤」、「中性色動詞の緑と紫」2つの色の組み合わせを行い、さらに紺赤グループと緑紫グループの4色対照色相配色を推奨しているのである。さらに続けて「菩薩像の袈裟に朱を塗るときは、裳(も)は必ず丹を塗り、逆に袈裟に丹を塗るときは裳に朱を塗るのが良い」としている。これは赤系の類似色相配色であり、同時に濃淡配色を奨励している。またこれら4色の使い方は「繧繝(うんげん)」というグラデーション配色の約束があった。
「繧繝(うんげん)」とは同一色相の濃淡配色であるが、ぼかしではなく数段階に分けて、淡い色から濃い色、または濃い色から淡い色へ、段階的に配列していく方法である。代表的な繧繝彩色として色相・染色学者の長峰盛輝は以下の代表的な例をあげている。

・紺青繧繝(黒→紺青→白青→白→朱)
・丹繧繝(黒→朱→黄丹→藤黄→朱)
・緑青繧繝(黒→緑青→白緑→藤黄→朱)
・臙脂繧繝(黒→臙脂→臙脂の具→朱)

 

 

 

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