ことばについての対話 ハイデッガー

H: 美学という名称、またその名称が言いあらわしているものは、ヨーロッパの思考、哲学から発しています。それゆえ、美学的思考ということは、東アジアの思考とは、根本から異質であるにちがいありません。

日本の人: たぶん、おっしゃるとおりでしょう。ただわれわれ日本人は、美学に助けを求めざるをえないのです。

H: 何を目的としてでしょう

日本の人: 芸術として、文芸としてわれわれにかかわりをもつものを捉えるために必要な概念を、それはわれわれに提供します。

H: あなたがたは概念を必要とされるのですか。

日本の人: おそらくしょうでしょう。というのは、ヨーロッパ的思考との出会いが行われてから、われわれのことばにおけるある非力さが明るみに出たからです。

H: その非力さとは、どういうものなものでしょうか。

日本の人: 日本語には、もろもろの対象を明確に秩序づけて、それらの相互の間のもろもろの関係を表象すべき、限定する力が欠けております。

H: そいういう非力を、あなたはほんとうにあなたがたのことばの欠陥とお考えでしょうか。

日本の人: 東アジアの世界とヨーロッパの世界との出会いが避けられなくなってきた状況においては、あなたのお訊ねは、たしかに掘り下げて考えねばならぬものです。

H: そのお言葉で、われわれはある問題点に達しました。つまり、東アジア人にとって、ヨーロッパ的概念体系のあとを追うことは、必要であり正当であるかという疑問です。

日本の人: 地球上のあらゆる地域において進みつつある現代の技術化と工業化に際会しては、そのことはもはや回避できないように思われます

H: 慎重な言い方をされますね。「思われる」と言われるのですね。・・・・

日本の人: ご指摘のとおりです。つまり、今もなお次のようなことの可能性は残っているからです。われわれ東アジア的ありかたから見ますと、われわれをも共に押し流しつつある技術の世界の影響は、前景的な部分だけ限られている、そして、・・・・・

H: ・・・・・その結果、ヨーロッパ的なありかたとの真の出会いは、あらゆる同化と混和にもかかわらず、実は起こっていない・・・・・・。

日本の人: 事によれば、まったく起こりえないかもしれない、ということです。

H: わたしたちは、この考えを無条件に主張していいでしょうか。

日本の人: わたしは、とうていそう主張することはできません。ただわたしは絶えず危険を感じております。

H: そう言われるのは、どういう危険でしょうか。

日本の人: ヨーロッパの言語精神はわれわれに概念的な領域における富を調達してはくれましたが、そのために、われわれは、われわれのありかたが当然の要求として求めているものを、何か漠然とした。あやふやなものに下落させてしまいがちになる。

 

以前、わたしは、ずいぶん不器用な言い方ですが、ことばを存在の家と呼んだことがあります。人間が、その用いることばを通じて存在の要請のなかに住んでいるとするなら、われわれヨーロッパ人は、おそらく東アジアの人とはまったく別の家に住んでいるのでしょう。
その場合、家から家への対話はほとんど可能になることはありますまい。

 

知識欲、また説明をほしがる欲求、こういうものは決してわれわれを思考する問いへ導いてくれません。知識欲というものは、いつもそれだけですでに、それ自身が虚構したところの理性とその理性の正当性を楯にとる自意識の、かくされた思い上がりです。知識欲という欲望は、思考する価値のあるものの前に立ってまちつづけることを欲しない欲望なのです。

 

いわゆるヨーロッパ的理性のすべからざる支配権は、技術の進歩が日々にわれわれの眼前にくりひろげてみせる合理的態度の成果によって、確証されたと見られています。その眩惑は大きくなる一方で、そのために、人間と世界とのヨーロッパ化が本質的なもののすべてをその源泉において蝕んでいることも、人々の眼に入らない状態です。その源泉は涸れるほかあるまいと思われるくらいです。

 

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