「瓢鮎図」の謎 芳澤勝弘

心とは何か

 心というものは、それぞれ各人の体の中にひとつずつ具わっていて、同じように他人の中にも別個の心が具わっていると、近代人の常識ではこのように考えがちです。確かに、私たち個々人の中ではたらいているものがあり、その精神的活動を心と呼ぶことができます。それも確かに心に違いありません。
 しかし、仏教でいう心は、そのようなところにとどまるものではありません。
 私たち現代人は西洋の思想に触れてすでに長いので、心というものを考えるときに、覚えず識らず西洋的な思考をしているのです。

 日本臨済禅の栄西禅師は、宇宙を一貫している巨大な真理、それが心であり、一切の原理であるというのです。そして、つぎのようにさまざまな言葉で表現しているのです。
 もっともすぐれた教え、真理(最上乗)
 思惟や言語で表すことのできない最高の真理(第一義)
 あらゆる現象にありのままにあらわれている智慧(般若実相)
 いっさいの事物がそのまま絶対真実であること(一真法界)
 この上ないさとり(無上菩薩)

 道元禅師は「正法眼蔵」で次のように述べています。
 一切諸法、万象森羅ともにただこれ一心にして、こめずかねざることなし。
 草木国土これ心なり、・・・・・・日月星辰これ心なり、山河大地日月星辰これ心なり、
 青黄赤白これ心なり、長短方円これ心なり、水沫泡焰これ心なり、
 春花秋月これ心なり。

 「猿法語」江戸時代、宝暦年刊行
 一心といふは、己が五尺の身のうちにひとつありと覚えて、我が心は我が一分の心、人の身にあるは、此方のにてはなしと思ふ。(と思うのは、仏教的では無い)
 一心といふは、人ばかり一心にてはなし。心といふは名は別々になりて、面々色々の心にかくれたる時の名なり。元来天地も草木も、雨も雲雷も、地水火風も、人間畜生も、天上地獄有りとあらゆる、皆一心性なり。生類となる故に心あり。地水火風草木の類に顕はれたるは心なうして、是を法性といふなり。心と性とは一つにして、分かれたる所を見れば二法なり。たとへば大海の水は平等一味にして、爰(ここ)を見たれば万法一心性の如し。

 小林秀雄の山水観
 山水は徒らに外部に存するものではない、寧ろ山水は胸中にあるのだ、という確信が彼等になかったら、何事も起こり得なかったというところが肝要なのである。彼等には画筆とともに禅家の観法の工夫があった。画筆をとって写す事の出来る自然というモデルが眼前にチラチラしているなどという事は何事でもない。自然観とは真如観という事である。真如という言葉は、かくの如く在るという意味です。何とも名付け様のないかくの如く在るものが、われわれを取りまいている。われわれの皮膚に触れ、われわれに血を通わせてくるほど、しっくり取り巻いているのであって、何処其処の山が見えたり、何処其処の川を眺めるという様な事ではない。

 世阿弥「山姥」
 暇を申して帰る山の、春は梢に咲くかと待ちし、花を尋ねて山めぐり、秋はさやけき影を尋ねて、月見る方にと山めぐり、冬は冴えゆく時雨の雲の、雪をさそいて山めぐり、めぐりめぐりて輪廻を離れぬ妄執の雲の、塵積もって、山姥となれる、鬼女が有様見るや見るやと、峰にかけり、谷に響きて今までここに、あるよと見えしが山また山に、山めぐり、山また山に、山めぐりして、行方も知らず、なりにけり。

 つまり、山姥とは心のことだというのです。そして、「心の変化」が山姥の「山めぐり」であり、四季の移り変わりであるというのです。

 妙心はわかき女のみだれ髪
    ゆう(結=言)にゆわれず、とく(梳=説)にとかれず

 

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