相手の身になって考える

2017-08-13

「相手の身になって考える」とは、よく聞く言葉ですが、
普通は、相手の立場になって考えるとか、相手の状況を考慮しなさいとか、
客観的な立ち位置のことで解釈しています。

でも、良く見ると「身」って、書いてあるんですよね。
つまり、これは主観の話ではないのでしょうか?
そう、考えると、ちょっと怖い話にも感じられる言葉になります。
相手の主観に入り込むわけですから、乗っ取りですか?

明治以降、私たちは科学的思考をするために、おびただしい感受性を捨ててきました。
ですから、こうした過去の分野の特に感受性に関しては、
考古学のように、化石を拾いながら、推測するしか無くなってしまったのですが、
ひょっとしたら、相手と主観を入れ替える技があったのかもしれない??
だから、主語の欠落がおきたりするのか?主語の喪失

おいおい、なんちゃって話もいい加減にしなさいと現代人は、すぐに思う。
が、しかし、例えばこの写真、

重さ300kgの米俵持っています。普通の村の女性です。(山形)
現在、ウエイトリフティングの女性メダリストが、
250kg持ち上げるのに苦労しているのに、どうして一般の女性が300kgを持つことが
可能だったのか?現代では到底、理解出来ません。
ですから、嘘だということで、今は展示されていないようです。
(本当の理由は、女性の人権問題ということになっています)
まあ、つまりみんなの好きな「科学的根拠」という奴が無いわけです。笑

たった70年前の出来事の科学的根拠が見つけられない現代人が、
相手の主観に入り込むなんて事は、
無理だし理解出来ないと言い切って、切り捨てるのは簡単です。

でも、その可能性があるのなら、とても興味深い話だと思いませんか?

※この写真は、榛名神社です。立石寺ではありません。

閑かさや 岩にしみいる 蝉この声 芭蕉

これは、立石寺で読まれた芭蕉の有名な句ですが、
芭蕉は、岩にしみいると詠んだのは、客観的に見てとったのか?
自らが、岩となり主観として、しみいると体感したのか?
岩としての自分の身体の中に蝉の声がしみいってきたとき、閑かさを体現できたのか?

さて、どう解釈すれば、俳句としての深みが出るのでしょうか?
翻訳することが、決してできない日本独自の文化の領域の話になります。

では、仮定として、そんな超能力者の様なことが日常に出来ていたとしたら、、
過去の達人さんたちが残した言葉が、理解しやすくなるから不思議です。

武道の達人は、相手と対峙した時には、もう相手の弱点が分かっています。
それは、相手の主観で自分を見ることができたからなのか?

一刀流夢想剣
「太刀を振りかぶり、相手の後ろ姿を捉えたときに
そのまま振り下ろせば必ず相手を斬ることができる」
これは、敵の背後に回るとかそういう客観的なことではなく、
相手の主観に入ったときと解釈したら、、

弓道の達人阿波研造師範
「的を狙ってはいけない。心を深く凝らせば、
的と自分が一体となる。自分自身を射なさい。」
これも、的を客観的に捉えてはだめで、
的の主観に入ったとき、つまり自分が的になったとき射貫けということ。

活人剣の意味も現代では不明になりましたが、
例えば、自分が相手の主観になる。つまり、自分の中にいる相手になり
そして、自ら自殺することで、結果相手を倒すという技があったとして、
そうしたときに、自分の中にいた相手は、自分の中で生き続けるということ、
つまり殺す相手の人生を請け負いましたということであった。
戦国の武将が、殺戮者なのに尊敬されたのは、
つまりは活人剣があれば、武将は多くの人々の人生の総意の
象徴でもあったというわけです。
はあ?となった人は、この話は無かったことにしてください。笑

ちょっと話が、大胆にそれました。爆

要は、言いたかったのは、笑
自分の中に相手がいると仮定して
なおかつその他者に働きかける方法があるのなら、
それは伝はることを研究している
伝ふプロジェクトとしては、可能性としておおいに研究したい。
と一瞬考えてしまうのです、、、、が、
しかし、人を操作する願望ほど、人をダメにするものは無いわけで、
そういう目的が、割と近くにちらほらするから、たとえばアメリカでは、
すぐに軍が介入して、結果マッドサイエンティストが多く排出されてしまうのも事実。
それは、アメリカというお国が洗脳ということを激しく研究しているからですね。

つまり、こうした技術があったとしても口伝である必要があるわけですし、
おおっぴらに、出来るとか出来ないとか言うことでも決してないのです。

ですから、
我々は、畏れおののいて、そうした領域に結界をはり、ただただ祀り、
不可侵の場として、禊ぎ清めていこうと誓うわけです。
そして、もし、その研究の場として舞台を選ぶのなら、
そこはどこよりも神聖である必要性があるわけで、
演者は、巫者として自己をすて、阿弥陀仏として存在するべきと
世阿弥(つまり観世阿弥陀仏)らが言っていたのかもしれない。

ただ、大事なのは、そうした技術よりも
我々の中には、相手もいて他者もいて、そうした多くの感受性のなかで
躍動感もって生きているという実感を持つことが大切で、
そういった実感を感動につなげるために芸というものがある。
決して独りで、生きているのではなく。それは、助け合おうなんて、ぬるい話では無く。
むしろいろんな人生のるつぼの中にある、混沌のなかの独りであるわけです。
多種多様な生命のこの混沌のなかで、共存して躍動しているのが人生である。
だから、お互いがむすびあい、つむぎあい、折り合いながら歩むべきもの。
そう信じて、伝ふプロジェクトとしてトライしていきたいものです。

なんて、壮大なことを言っているんだ。とビックリしている次第です。

 


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