動的思考法について

私たちの思考法というのは、普段は直線的であり平面的であったりすると思う。
考えを整理するときに、箇条書きにしたり、チャート図やイラストにしたりと
2時限的に表現をすることが有効なのはそのためだと思います。
この場合の思考の立ち位置は、静止した状態になっていると思います。
このことを例えば静的思考法とします。
それに、対して、野良の猫は、危険を察知してから動くのでは無く
動く事によって、危険を察知しているとも言われています。
つまり思考の立ち位置が移動してるわけです。
これを動的思考法とするならば、私たちはこのことにどう対処すれば良いのでしょう?

分かると分ける

私たちが、理解するとは、どういうことなのでしょうか?
分かることは、分けることだという事をよく聞きます。
また、↓の著書では、分けるだけでは、分かったことにならない
と警鐘も忘れていません。
そして、重要なことも書かれています。

 ヘーゲルは、はっきりと「分析するということは表象として既に知っているという形式を棄てることだ」という。表象を根源的な要素(エレメント)に分解したその到達点は、固定し静止した規程だとはっきり述べる。そして、「この分けられたもの、非現実的なものこそ、本質的な契機をなすものだ」というのである。だから分けられたものは非現実的であり、死であると彼は明言する。

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分けるという理解は、死物であり動的ではないわけです。
つまり、この思考法は、生きているもの動いているものには限界がありそうです。

例えば、1+1=2というあたりまえの計算式は疑いの余地がありませんが。
この式の大前提として、1が静止していることがあげられます。
どういうことかというと、これを男と女で考えると、分かりやすいと思いますが、
この二人が二人で有り続けるためには愛し合うことも殺し合うこともできません。
当たり前の事です。でも、何も起こらないことを前提に男と女をくっつけるのは
かなり無理があるし、第一意味がありません。
こうして、科学や数学という学問は、自然界に置き換えると無意味に感じることがあります。なぜなら、自然はつねに動いているわけで、静的理解はつねに歪み内包しているわけです。


次に私たちが、あるものを理解しようとするときまず、学校で教わった習慣から
分けることから始めます。
IQのテストでは、しばしばその分ける能力を試されます。

例えば、こんな問題

iq
私たちは図をみて、まず他の図との違いを見つけ出すでしょう。
そして、分析をし結果を予測する。
すごく当たり前のように、行っているこの行為は、長い間の教育によって
身体に染み付いている可能性があります。
これらの行為に疑いもなければ問題点があるとも思いません。
しかし、この分かるは、有益では無いのかもしれないのです。

どうゆうことかと言いますと、分けるという行為は、異化を見つけ出す行為であります。
異化とは、自分と馴染まないもの、つまり同調できないものとして認識するわけです。
つまりそれは、記号化された、いわばレッテルのようなもので、
レッテル貼りが、終われば興味のないもの、自分とは関係のない
動かないものとして認識が終了する、死物として扱われる可能性があります。
視覚について 関連ブログ)

また、この認識の最大の欠点は、差別意識を持ちやすい事です。
例えば自分を理解するために、他人と比較するわけです。
誰々と違って、自分は背が高いとか、色が黒いとか、勉強ができるとか。
自己分析そのものが、差別意識の温床になりかねなのです。

そして、認識による理解は、死物を扱うので、動きません。
理論の組み立ては、容易になりますが、動かないものの上に立った考えは、
得てして、机上の空論になりかねないのです。
また、巨大なエネルギーを必要とする理論になるかもしれません。

この欠点を知ってか知らずか、海外の人は、立って考えます。
歩きながら、考えます、せめて身体だけでも動的にしているのか?
一方、日本人は物事を考えるとき、座ったほうが安定します。
歩きながら、考えることもありますが、立って議論することは苦手です。
その代わりに、身体の中を動かすのかもしれません。
座禅を組んだり、瞑想してみたりと、少しでも動きを加えるわけです。
しかし、絞り出される考えが、静的思考法なら、やはり厳しいかもしれません。

ですから、いっそ動的思考法って出来ないものなのか?
という、壮大なテーマなわけです。

 

 


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