侍クラブ概論

自我から離れて身体へアプローチする

世のなかのシステムは、すべて自我をベースに置いた精神集中で説明されています。
美術を習えば、だれでもピカソになる、しかしその中で身体のアプローチは語らない。
ハリウッドで演劇を習えば、誰もが大俳優になれる。
演技はすべて、役へのアプローチに専念し、身体へアプローチは研究しない。
そして、こうしたシステムを勉強しても偉大な画家や偉大な俳優になれないなら、
それは、その人の努力と経験が足りていないか運がないからだ。
というのが、おおざっぱなシステムの内容です。

いまだかつて誰一人、身体へのアプローチを体系的に試みたひとがいない。
いや、たしかにいたのかもしれない。しかし、それらのほとんどすべては、
その国の軍によってクローズドされるかマッドサイエンティストとして葬られてきた。
それだけ不都合な事が多い分野なのかもしれない。
国民は思想(精神)の自由を認められているが、身体の自由は認められていない。
身体は国家が厳しく管理している。医療の一元化、ワクチンの義務、などなど。
なぜか?

日本人の文化と智恵も、科学にとって不都合な面が多く存在している。
それもあって、明治維新、戦後と躍起になって日本文化を封じ込めてきた。
そして、現在ほぼ完成に至った。
それは除夜の鐘がうるさいからと昼間にならすことになる事実からも想像がつく。

特に現代は、拝金主義の最高潮の時代。食品マフィア、電力マフィア、薬品マフィアと
巨大な集団が強力に力をもち、何も知らない方が幸せかもしれない。

それでも、あえて科学にとってタブーでもある。身体へのアプローチを試みる。
身体のアプローチを回避してに文化や伝統を継承することが不可能だからである。
精神が作り上げた自我を制御し、過去の伝統や文化に耳をかたむける。
そうしたとき、はじめて継承物としての身体がそこに浮かび上がる。
この身体に触れたとき我々は個々の能力差や運不運に左右される人生から解放され、
生命観あふれ躍動する人という生き物に触れることができるのだと思う。

科学的根拠はない

科学はいつの間にこんなに偉くなったのか知りませんが、
そもそも、自然界の不思議を解明するためにはじめた学問のはずなのに
自分たちの理論の不備を棚に上げておいて
科学的根拠がないものは信じられないって、そんな時代になりました。
こういうのを本末転倒って言うのでしょうね。
侍クラブのやっていることに科学的根拠はありません。
でも、侍クラブは案外理屈はあります、それをこれから説明するわけですが
逆に科学は根拠にうるさいわりに公式はあるけど理屈がなかったりします。
暴走した原子炉に水かけるぐらいの理屈しかないのが現状でしょう。
そもそも、お金をもらった側に真理が動く理屈って屁理屈でしかない。
ですから、むしろ科学的根拠はないほうが真実味があるような気がします。笑

科学的根拠から離れて、少しでも自由な身体を手に入れましょう。

同調も共有も関係性も存在しない共存ということ

一人の人間は、命と精神と身体と分けることが出来ます。
これらが、調和ないしバランスを取りながら共存しているという幻想を抱きがちです。
しかしこの三つは、全く関係性を持ちません。
生命は死を迎え入れますが、精神は死を嫌います。生命を失っても身体は消えません。
そして、精神の思うように身体は動きませんし、精神は身体を痛めつけます。
つまり、生命と精神と身体は、それぞれが独自の理屈と環境の中で生きているのです。

共存とは、環境を共有することではなく、時間と場所を共有しているだけなのです。
そして、これは三つは、どれもこの世に定位する実体ががないのです、
全ては無いものに等しい存在なのです。
つまり、生きるとはこの喪失感がテーマになり、
さらにそのことが生きる原動力ともなります。
(唯物論で作り上げた科学が手が出せない理由のひとつです)

日本文化は、古来からこの三つの統合をあきらめ、分離することを試みてきました。
日本人の集中観が、集約ではなく分散に向かうことからも理解が出来ます。

この生命と精神と身体の違いを知り、使い分けることが日本文化の継承になります。

生命:誰も見たことも感じた事もないもの。この人生最大の喪失感が生命感です。
命そのものは、永遠で一度も死んだことがないが、
個体としての生命は誰よりも真っ先に死を欲している。
生命感の喪失が生きる原動力でもある。
芸術とは、誰も一度も感じた事の無い生命感を作品の中に表現することです。
(注意:生命を理解する上で、対語理解をすることが多い。どういうことかというと、
死はわかりやすい。その死との対比として生命をとらえるという考え方です。
世間的には一般的ですが、この考えは、病気や戦争を認める考えに発展します。)

精神:へその緒を失ったときに自我が発生したという。
つまりは、耐えられないほどの喪失感から生まれた自我と精神
そして、精神は過去を持たず、歴史の流れの中に自分を見いだせない。
現在と未来を思考し、新しい物を生み出すことに意欲的である。
精神にとっての過去は、現在と未来から考えた捏造物である可能性が高い。
記憶は、あやしいということ。つまり伝統や文化に不向きである。

身体:過去しかない、現在を生きていない。現在の出来事に過去の経験で
対応をしようとする。そこには、必ずズレを生じることになる
このズレが身体感覚となる。身体の持つ過去は、個を超えた長い歴史の上にある。
おおよそ300年ぐらい過去にさかのぼる。つまりこれらは他者としての身体である。
自我が成立しないような過去の身体と現在に向きあうことになる。

記憶は未消化の経験であります。
消化されれば、記憶から消え身体の一部になります。
つまり、記憶とは違和感の集まりなのです。
例えば、自転車を乗るまでは、乗り方を記憶しますが
乗ることが出来てしまうと、乗り方を忘れて身体の一部になるわけです。
その後は無自覚の領域で自転車に乗ることができるようになるわけです。
記憶から経験へ、そして身体へ昇華するとき人は感動する。

このように生命、精神、身体は理屈も環境も共有出来ない関係ですが、
どれが欠けても、私たちは生きていくことは出来ません。

考えようによっては、毎日生きていることはかなり奇跡的な事なのです。

精神と身体の扱い方

ここからが、主題ですが、
私たちは、この命を扱う場合、どうしても精神が先に立ちます。
それは、仕方の無いことですが、精神は過去を扱えないので
適度に制御しないと、秩序が乱れます。
その中で、私たちは、新しい文化や型を作り上げていく必要があります。
もちろん文化や型は時間がかかりますので、私たちが出来ることは継承することです。
精神側の理屈で考えると生きてきた証がそれでは出来なくてつまらないと思うでしょう。
しかし、身体側とのコラボを考えると、これはかなりダイナミックな壮大な話になります。
精神のために生きる人生から、精神と身体と生命のために生きる人生がはじまります。

侍クラブでの身体の概念

まず、私たちが身体だと思っているこの物体は、精神が捏造した形をしています。
鏡に映して現れている自分の身体という代物は、精神が造りあげた幻影とうわけです。
精神が扱いやすいように思い描いた輪郭を持ってそこにあるわけです。
唯物論になれた思考では、かなり壁の高い最初のハードルです。
身体とは、ある集注体だと思ってください。
つまり集注も出来ない人は、この世に存在しない幽霊みたいな人ということです。
人がある集注状態に入ったときはじめて人は姿を現します。
昔の人は、他者のまずこの姿をみたと言われています。
ここからは、理論では難しい問題ですし、整理もついていません
ただただ、身体とはとらえることがとても難しい存在だということです。
稽古会で扱う身体の種類について書き出しておきます。
ザクッと、感じる身体と見える身体に別れています。

・客観的身体、今ここにある。私たちが身体と思っている身体。
・身体感覚としての身体。所作で使います。
・影としての身体。
・残像としての身体
・輪郭としての身体
・気の流れとしての身体。
・抽象形としての身体。
・時間のズレとしての身体
・腰を使った身体
・腹を使った身体
・意志の通じない身体(他者としての身体)

力の概念

力は物理で習いましたが、まったく概念が違いますので
一応書いておきます
普通力は、エネルギーという言葉で表現されますが、
それらは、運動であったり、興奮とか加速度とか
まあ、科学のほうもかなり概念としてはいい加減ですが、
日本的にはちからは、

血から:先祖から伝わる力、歴史的ちから
地から:大地から伝わる力、自然のちから
霊から:浮遊する霊魂の力、生きとし生けるものすべてのちから
父から:父なる力、(私見ですが、もしかしたら生命を終焉させるちから)

つまりは、自ら発するものは、力の概念の中にないわけで、
私たちは、ただただ巫者となって伝へるだけの存在だということです。

伝ふプロジェクトは、文化を伝ふことを目指しているわけですが
つまるところこの力の概念に近いのかもしれない。
私たちは文化の存在に気づき、それをただ伝はるように身体を使う。
これが創造ということになるわけです

ここまで、ザクッと導入の基本的な概念を書いておきました。
まだまだ、いっぱいあるのですが、
稽古するのが嫌になられても困るので、これくらいにしておきます。笑

質問とかあれば、稽古の時に気軽に声かけてください。

かなり果てしないテーマですが、コツコツとやって行きましょう。

実生活で活かせることもあると思いますよ。
よろしくお願いいたします。

 

侍クラブ稽古会

 


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