世界が驚くニッポン その2

2017-03-27

「外なる自然」と「内なる自然」日本人のコンセプト

先進国のうちで、いまでも7割もの緑被率を保っているのは、日本だけだ。近代化の影響を受けつつも、豊かな自然が身近にあり、四季の移ろいを慈しんできた。それが、日本人独自の自然観を形成している。擬音語の多さにも、その自然観は表れている。たとえば、「雨」ひとつとっても、「ぴちょん」、「ザーザー」、「しとしと」などさまざまな表現があり、日本人は擬音を聞いただけで、情景を思い浮かべることができる。日本人の価値観のベースに自然がある。その独特の感性が、日本人を”オンリーワン”にしている。

日本人独特の自然観
Japanese people’s unique view of nature
島国であり、山国でもある日本の気候風土。日本人は、自然から、ときに台風や地震、豪雪など厳しさを与えられる一方で、四季の豊かな彩りや多彩な食文化などの恵みも享受してきた。日本人にとって自然は畏怖する対象でありながらも、同化し、共生するもの。あらゆる自然との接点において、自らの内面に”内なる自然”を見出してきた。そしてその感性は、モノ、コト、美意識や芸術、文化に影響を与えている。
たとえば、この日本人の感性がものづくりに向かえば、生まれるモノには用の美や職人技、ひとつの道を極めようとするストイックな姿勢が宿るだろう。暮らしに影響すれば、季節に感謝し、自然を愛でながら季節ごとの行事を楽しむライフスタイルが生まれる。芸術へと影響すれば、自然へ憧れから、ありのままの自然を取り入れた独自な色彩感覚が繊細な美を生み出す。無限の自然を表現するために、さまざまな形容詞が生まれ、豊かな言語表現や文学が誕生する。
これらのモノ・コト、芸術や美意識により形成された日本文化は、日本人らしい自然観をベースにしながら、いくつかの補完要素によっても成り立っている。そのひとつが日本人独特の脳の機能。象徴的なのは秋の夜長に鳴く虫の”声”に耳を傾けること。母音を多く使う言語構造から、日本語話者の脳は、母音、泣き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎ、邦楽器音などは、言語と同様に左脳で聞くという。西洋人が楽器や雑音と同じく右脳で聞いているのとは対照的だ。いわば、日本人は「自然から語り掛けられている」状況にあることから、自然をより身近に感じ、自らの感覚と同化させやすかったのだろう。
 さらに、戦乱の時代を経て、17世紀から役300年間続いた江戸時代が、争いのない平和な時代であったことも、感性を生かした文化形成に重要な要素だった。技術が上流階級に独占されることなく市民の繁栄のために使われ、季節行事が大衆に浸透し、遊び心あるれるモノが多数生まれ、多くの子どもが学校に通い「読み・書き・そろばん」という勉強の基本を身につけ、高い識字率を誇るまでになった。自然からインスピレーションを受けたデザインの家紋が広く一般家庭に取り入れられるようになったのもこの時代だ。
 過酷な試練と豊かな恵みの両方を与える二面性をもつ自然環境と同化することによって形成され、脈々と受け継がれてきた日本人独特の自然観。その感性が生み出した豊かな文化を、いま一度日本人自身が見直し、継承していきたい。

さすがにここまで、荒削りな説明で、
一方的な文化に対する考えを押しつけられると感じが悪い。
左脳右脳の理論は、もう終わった議論のような気もするし、、
文化が上流から下流へ流れた的な発想も、国家のほどこしというか、
お役所的な高見を感じますね。

豊かな四季を楽しむ季節の行事
Festivals celebrating the four different seasons
 自然を見つめ、自然と共生しようとする日本人の価値観は、自然を愛で、恵みに感謝し、畏怖し祈る、といった行動を引き出した。桜が咲き誇るのは一年のうちのほんのわずかな期間。その儚さも含めて美と感じ、「花見」と称して愛でるのが日本人だ。「桃の節句」と呼ばれる雛祭りは、子どもの健やかな成長への祈りが込められた行事。これらの季節の行事はもともと貴族の遊びや宮中行事として行われていたが、江戸時代に庶民に広まったもの。その伝統は現代まで受け継がれ、地域によりかたちを変えながらも、共通行事として日本全国で行われている。

自然をモチーフにした独特の色彩感覚
Unique sense of color based on a motif of nature.
「自分と自然を同化させる」とうい自然観をもつ日本人は、自然界の色彩を”ありのまま”受け入れた。日本の伝統色の名前はほとんどが植物や動物など自然界にあるもの。色は絶対的なものではなく、陽の当たり方などによってゆらぎがあるものとし、約300色の伝統色を言語で補いながら、さまざまな美を表現した。平安時代の十二単に使われた重ねの色目は。自然界の色の組み合わせがお手本になっている。季節に合わせて身にまとうことが美とされ、また教養とされていた。

虫の”声”が聞こえる日本人
Listening to the “voice” of insects
日本語には自然に対する形容詞や擬態語・擬音語が多数存在し、日本人の自然観を表す豊かな言語表現を生み出している。これは世界でも類を見ないほど母音を多く使う言語である日本語を話すことで、自然界の音を、まるで言語を聞くかのように処理する脳構造になっているからだ。たとえば「虫の音」を音楽や機械音、雑音などと同じように右脳で聞く外国人に対し、日本語話者は左脳で聞く。音ではなく「声」としてとらえる独特の脳構造が、自然の変化に耳を傾けさせ、豊かな表現につながった。

家紋にも自然をデザイン
Natural element designed into family crests.
 上流階級だけでなく、一般庶民も一家にひとつの家紋をもつようになったのが江戸時代のこと。家ごとに異なるデザインは実に数千種類以上にも及ぶが、中でも圧倒的に多いのが自然をモチーフにしたもの。古代から自然を身近にとらえ、自らを同化させてきた日本人にとって、表現のインスピレーションを自然から得やすいのは当然のこと。植物や動物はもちろん、風や雲、太陽や月といった自然もデザインに落とし込み、それぞれ個性を出していた。

自然観が間の感覚を生み出した
The Japanese concept of nature produced the idea of ma.

 日本人の自然観は、日本古来の宗教である神道を生み出した。「八百万の神」への信仰、いわゆるアニミズムである。さらに、仏教の伝来とともに、「この世に変わらないものなどない」という無常観が生まれ、禅の思想などに受け継がれてきた。そんな中で、対立概念や矛盾を受け入れ、ニュートラルな立場にいて、あるがままの状態の中に意味を見出そうとした。それが、「間」の感覚である。
 時間、空間はもちろん、人のことも「人間」と表現するように、「間」のないものは存在しない。「間」は、固定化した物質ではなく、動的で、直感的にしか捉えられない。現代の日本人にも理解しづらくなった感覚だが、実は「間」こそが、伝統的な美意識、美術へ、深い影響を与えている。たとえば「粋」とは、上品でも下品でも、派手でも地味でもない、中間を指す。日本画の「余白の美」、茶道などの「不足の美」は、あえて完璧にし過ぎず、受け手が想像するスペースを残しているように、「間」の感覚が日本伝統の美意識をつくり出した。さらにそれが、庭を箱庭に、植物を盆栽に、料理は弁当に詰める「縮み志向」などの特異な文化につながったのだ。

間から道を見い出し、和を成す
Finding a way to create harmony from ma.
精神を磨き、身体感覚を整え、心と体と環境をつなげ、合理的な体の使い方を覚えていく・・・・。住環境、衣服、道具、作法といった文化は、それらが調和し、機能するように生み出された。「和」を目指す日本人の生活感の中から、「道」が生まれたといえるだろう。

 自然の中から、「間」とうい感覚を見出した日本人。その行き先に、何を目指したのだろうか?もう一度、自然観に戻って考えてみよう。西洋の近代合理主義にとって、自然とは外敵であると同時に、文明を生み出し、生活を発展させるための材料であり資源、つまり「手段」であったとされる。対して日本人は、自然を「もっとも理にかなった、調和のとれた状態」とみなした。つまり自然こそが、最終的に到達すべき「目標」と考えたのだ。自然を究極の目標とした、調和のとれた状態のことを、日本人は「和」と呼んだ。約1400年前、日本の政治の礎を築いた聖徳太子も、「和を以て貴しとなす」と説いている。日本人は古くから、「和」を目指すことが、すべての真理に通じると考えてきたのだ。
「和」とは、すべてがひとつに調和し、まとまっている状態のことを指す。自然から「間」を見出した日本人は、心(内なる自然)、環境(外にある自然)、体をひとつにし、「和」を成そうと努めてきた。そして、その「和」の状態を、「美」と考えた。「和=美」であり、調和なき美は存在しないというのが、日本古来の美意識である。しかもしれは、無駄なものをすべてそぎ落とす中で生まれる調和=美であり、飾り立てることとは反対の価値観である。
その調和した美を目指すプロセスを、「道」と呼ぶ。美の追究の仕方はさまざまだが、武士道をはじめ、柔道、剣道、茶道、華道などの文化・芸術において、長い時間を掛け、洗練された体系が「道」である。武道で「型」が重視されるのも、そのためである。最もシンプルで調和がとれた美しい状態=「型」を覚えることが、基本なのだ。日本の武道は、単なる強さ、力の勝負ではない。だから、若くて力があっても、熟練の達人にかなわない。日本舞踊や歌舞伎といった伝統芸能でも、80歳を超えた名人が第一線で活躍し、若手では太刀打ちできない。「道」には終わりがないため、人生のピークが存在しないのだ。
この「道」の思想も、現代の日本人にとっては難解になりつつある。しかし「道」の精神は、かたちを変えながら、脈々と受け継がれている。たとえば、部活動に励む少年少女は、監督やコーチの指導のもの、懸命に練習に打ち込み、全力を心掛け、何よりも礼儀作法を教え込まれる。ここには、単純な技能向上としての訓練を超えた、「道」の精神が宿っている。その練習風景を見た外国人は、驚かずにはいられないという。日本人のDNA、無意識には、いまもなお「道」が宿っているのだ。

調和の精神と「道」の追求
Pursuit of the spirit of harmony and michi.

補足:上の図の小さい字が読めないと思いますので、
(二律背反する欲求の狭間のニュートラルな状態が、「間」。自然との同化感覚を磨いてきた日本人ならではの感覚だろう。)

「道徳観」「人の道に反する」など、人間性を表現する際に、日本人は「道」という言葉をよく用いる。「道」はもともと道教・儒教などの中国思想だが、日本人はそれを、心と身体を整え、調和した状態へと導くための価値観や行動様式として体系化してきた。
 人の感性は、自然への回帰欲求と、人工物を生み出し、自然から離れようとする欲求とがせめぎあっているといわれる。「道」とは、対立する感性をつなぎとめ、心と身体を整える価値観の体系といえるだろう。

道の思想、その最たるは職人の世界
The ultimate practice of michi can be found in the world of artisans.

補足:上の図の小さい字が読めないと思いますので、
(「型」を駆使し、独自の手法へと磨き上げ、型を壊す=「型破り」することを、「技」と呼ぶ。職人が、技術を守りながら進化させる一連の流れを、「守・破・離」と表す。

代々受け継がれてきた、限定された行程を「型」という。「型」を学び、身につけ自分のものにすることを「型にはめる」と表現する。

心と身体を調和した状態「和」へと整えるための価値観の体系が「道」。日本人特有の感性こそが「道」である。)

日本の教育現場では、スキルや知識だけでなく、礼儀や心構えなど、「道」に通じる精神が重視される。教育によって、「道」は日本社会の隅々まで浸透してきた。中でも「道」を教え育てる場が、職人の世界である。職人は、きまった「型」を習得し、独自の「技」へ磨き上げ、継承しながら進化させる。この過程そのものが、終わりのない「道」である。だから、いつまでも謙虚に自らを磨き、世代を超えて伝承し続ける。それが、モノへの独特の価値観を生み出してきた。

つづき

文化

 


Copyright(c) 2013 伝ふプロジェクト All Rights Reserved.