頭で理解しようとする罠

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あるとき、侍クラブの説明をしていたら、ふいに相手から、
要は、あなたの言っていることは精神論なんでしょう?
と話しを切り返されてしまったことがあります。
もちろん、僕の説明もよろしくないのですが、あれれと思ってしまった。

そうか言われてみれば、武士道なんて、ちまたにたくさんある書籍は、
おおかた誰もが、精神論だと思って読んでいるわけですよね。
もちろん、最近の書籍は、書いている方も精神論として書いているように、
思われますが、、、。

ただ僕はことのき、ちょっとだけ違和感を感じてしまったわけです。
当の本人は、精神論ではなく、実務的なお話をしていたつもりなのに、
相手には精神論に聞こえていたわけです。これは痛い話しです。
なぜだろう?

よく、戦争体験を後世に伝えるために講演会をしたりしていますが、
ひょっとしてこれらも、体験を伝えたいと思って話していたことが、
聞いている側は、精神論だと思って聞いているかも知れませんね。
要するに、戦争をすると大変だし悲しい思いをするので、
やめた方が良いんですよね、と勝手にまとめて、わかった様な気になる。
そもそも、人の体験なんてものを他人に伝えることができるのだろうか?
とさえ、思ってしまうのでありますが、、。
少なくとも体験を時系列で事実を箇条書きにして、頭で理解しようとすれば、
それは単なる知識になってしまうから、行き着くところ精神論になるでしょう。

マスコミでは、戦争は語り継がなければいけない貴重な体験ですね。
と安易に言うけれども、そんな簡単な話ではないことはすぐにわかる。
実際、武士道はもうすっかり精神論になってしまった。

例えば、演技を教えに行ったりすると、少し熱心そうな生徒さんが、
こんな事を聞いてきたりする。
「先生、つまり何に気をつければ良い演技ができますか?」
そう聞かれれば、それについてそのときに思いついたことを
もっともらしい言葉で言ったりもして、
なんか、良かったなんて思ったりもしてしまいますが、。
これは、体験を聞きたいのではなく、まさに頭で理解して、
ためになれば、利用して、だめなら切りすてようという態度ですね。
まったくもって、不毛なことであったと思います。ごめんなさい。

物事をできるだけシンプルにして、そして理解したことにする。
だから、すぐに要点を聞きたがる。音楽ならベストアルバムを聞く。
これでは、自分の価値判断を切り崩すところまでは間違いなく無理で、
他の人から新しいことを聞いたつもりでも、なんら変化はしない。
ある固定化された認識の確認作業にしかならない。
知識をいくら増やしても、実践には役に立たないのは
だれもが、経験してきたことですね。

柳生十兵衛が、無敵と言われた小野忠明の夢想剣を一度
教えをいただいただけで身につけたと言われています。
これは、なにも要点を箇条書きに教わったのではないでしょう。
まさに、経験の継承が行われのだと思います。
えっ?僕たちは普段、合理性を追求してきたつもりなのに
なんて、不合理な理解の仕方を習得してきたのでしょうか?
恐ろしくも早く、正確に伝えられるのが
実は、経験の継承という手法なのかもしれません。

これは、まったくもってほんとうに難しいお話です。
ですから、たぶん私たちがとりあえず、
まずやらなければならないことは、
話す側は、なにか意図を持って伝えようとしてはならないし、
聞く側は、けっして理解しようなんてことは考えてはいけない。
理解は必ず遅れてやっくる、なんてという言葉もありますしね。

この世に理論的な事象はなにもなく、ただ記憶の中で
事後承諾的に理論が生まれそれを理解したとする。
つまり理解とは、必ず後からやっくるものであるという説ですね。

人の話を聞いていて、ああ分かったと早計に思ってしまうのは、
それは単に自分の記憶のなかに勝手に当てはめてみたのであって、
過去の自分に後戻りしてるだけで、現実に生きていないわけです。

話しが終わらないのでここで、あえてある仮説を勝手にたてますが、
私たちが、ある体験を継承したいのであれば、
話す側にも聞く側にも、双方にあるきまった型(作法)を
作り上げる必要性があるのでは、ないでしょうか?
それが、身体言語なるものかもしれない。
たぶん日本の文化の中にその秘密が隠されていた。
今となっては、ただただ推測するしかないのであります。

 

 

 


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