道理と常識と 

suwa3

先日、刀をどう持ったら良いのかを手のひらの感覚を中心に工夫してみたら、
僕が今まで常識と思っていた結果とは、違う持ち方になってしまった。
これは、困った。どうするべきなのか?
もちろん、刀の持ち方というのは、「手の内」と言って奥伝として秘密だと思います。
ですから、なにが正しい持ち方なのか知るよしもありません。
それでも、ネットなどで収集してみればなんとなく分かるのですが、
それらとも違う持ち方になってしまったわけです。

常識的に考えれば、当然僕のほうが間違っているわけです。
僕もそう思うわけですが、しかし、そもそも常識ってなんだろうと思ったわけです。

僕たちは、一生懸命知識を得ようと努力をしてきました。
そのほとんどは、常識的なことです。
でも、その常識ってものはほんとうに有効だったりするのでしょうか?
結局のところ、偉い人や権力者、有名人が言ったことが常識となり
無名な人や、力も実績も無い人の意見は、無視されるわけです。
つまり、常識とは、真理というよりは流行に近い感覚なのかもしれません。
もし自分の人生を流行なんかに左右されたくないと思うのなら、常識の意味は?
現代は情報過多の時代です。ネット社会になりどんなことでも簡単に検索できます。
しかし、それらの情報の多くは何らかの意図を持って流されている可能性があります。
宣伝であったり、世論の誘導であったり、風評であったりするわけで、
陰謀論なんかにはまってしまいますと、もう何を信じていいのやら、
わけが分からないわけです。。
特に震災以降は、意図的に嘘の情報も多く流されてまさに混沌としているわけです。

源平の争乱のさなか、九条兼実が日記「玉葉」にこうした考えを残しました

法の滅尽したとき、時代の人々のよりどころとなったものは、みずから体験したものしかなかった。すなわち、行動の跡しかなかったのである。人間の行動の跡は、すなわち道となってあらわされる。この道すじを「道理」とよび、これこそ、法にかわる新しい人間の倫理、思想であると考えたのである。
(書籍:「数寄」の美より)

ものの道理という意味がこう言う意味であることですら、もう常識的には怪しい。
道理と検索すれば、正しい道筋としか出てこない。
しかし、この時代は、常識よりも自ら経験したことや
先人の経験したことに重きを置いて、それを道理と言った。

対して現代は、職業として働く科学者の言うことを信じて行動の規範としています。
つまりお金をもらえば、それによって真偽のほどを調整するのが現代科学です。

そう思うと、今回、僕が感じた事は、ひょっとしたらそれはそれでOKなのかもしれない。
そんなことを、思ってしまったわけです。
なにも自分が自信の塊で、自分を感覚を絶対的に信用しているわけではなく、
科学がそもそもその程度の事なのかもしれないと思い始めたわけです。

昭和17年頃の女性の写真:山形県酒田市の山居倉庫資料館の写真

fc2_2013-05-24_08-21-12-523(ネットより拝借)
アスリートでもない女性が300キロの米俵を担いでいる写真です。
さて、この写真を科学的な説明がつかないので、
嘘だとか合成写真だとか(この発想がまさに現代)無理に決まっているとか
食べ物が違っただとか、云々。つまりはもう全く分からないわけです。
たった70年前の出来事なのに、、
科学的に説明がつかないので、もうこれは嘘だということになるわけです。
この惨状を見るからに、科学の限界を感じるわけです。
たしかに、科学によって便利になりした。
人間が人間以上のことをする事が出来るようになりました。
しかし、それは機械がする事であって、人間を機械の一部としては理解できるが
生物としての人間は、逆にどんどん分からなくなってしまっているのかなと思うのです。

こう言うことを言うと逆ギレされて、じゃあお前は300キロの米俵を持てるのか?
と難癖を付けられたりもしますので、言っておきますが、もちろん、僕は持てません!!
だって、間違いなく僕も科学大好きな現代人ですから、
でも、そうした先人の経験をなぞって道理がわかる日が来れば、米俵が持てる日が来るのかもしれないという。何かしらの希望みたいなものを感じるわけです。
そんなことをして、なんの得があるの?と思った人は、間違いなくもう立派な科学者です。

ものの道理がひらく明るい未来(冗談ですよ)

 

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